東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『娘子のルール』

夜。僕の横で寝ていた娘子が寝苦しかったのか身体を起こした。そして、なぜか僕を、あっちいけといわんばかりに押して離そうとした。押されるままに布団の端に移動すると、娘子は再び眠りについた。不可解というか、軽く傷つく行動。


娘子の中で、なにやらいろいろなルールが決まりつつある。喉が渇くと、ジュースをくれと頼むのは僕だ。嫁氏ではない。そして、家族3人で出かけるときは、ベビーカーを押すのは嫁氏の仕事らしい。僕がベビーカーを押すと激しく怒りだし、離そうとする。が、僕と娘子だけで歩いている時はベビーカーは当然僕が押すが、それについては特に言及はない。


娘子の中で、何やらルールがあるのだろう。


今日は午前中は雨模様だったのに、昼過ぎには晴れてきたので西武百貨店に買い物に行く。嫁氏が買い物をしている間、娘子とおもちゃ売り場で遊んでいる。もう、結構前からだけど、ままごとをおもちゃでするようになっている。それが娘だからなのかそれとも子ども全般そういうものなのか。ままごとってするもんなんだなぁ。


おもちゃの包丁で、おもちゃの人参などを切る。鍋で煮る。お玉で味をみる。どれも見よう見まねでやっている。真似ることが学ぶこと。興味を持ったことを自分もやってみようとする姿は、見ていて親冥利につきる。


だから、夜に、僕を布団から押し出さないでほしい。寂しいよ、父は。


このところ、娘子を風呂に入れて、夜に再びゆっくりと風呂につかったりしている。お供にポータブルDVDなどをいれて映画を観ていたり。して、数日かかってキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』を久しぶりに観た。


テーマについてどうこうよりも、これは男の彷徨の物語として観ることが出来るのではと思ったり。妄想が具現化したような現実と、現実のような妄想の間をひたすら彷徨するトムクルーズ扮するビル。ステディカムでその彷徨をひたすら追う。鍵盤を強く叩いたような一音が響く劇伴。どこまでも音が消えないゆっくりと曖昧模糊としたこの彷徨の時間を共有する体験としての映画として観る。この時間と現実感の麻痺する感じを手法として映画にすることを試みていたのではなかろうか。


で、もう一点は室内シーンの夜の場面で、窓外の照明がやけに作り物のような青だったこと。登場人物の多くは、その青を背景に欲望や妄想を語る。夜のシーンの多い映画だけど、だからやけに明るい。映画のクライマックス、主人公が帰宅し、クリスマスツリーの照明を消すと、全ての窓から一斉に青が溢れて部屋を埋め尽くす。全てを妻に打ち明ける決意をする男の泣き姿でカットがかわり、どうやら長時間泣いた後のような妻の顔の画になる。男の語りは省略され、すでに夜は明けており、その奇妙な青は消え、朝の光が差し込む。そして映画は終る。


どこかまでも撮り方にこだわった作品だったのだと思う。