東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『晴れた日/声がでない/訃報』

体調を崩した後、日曜に安静にしていたら月曜は大分落ち着いて会社にも行けた。で、祝日の火曜は当番で職場にでており、そこでいろいろと話をする仕事をしていたところ、治りかけたところでしゃべりすぎたせいか声がでなくなる。人生で初めてではないかというくらい声がでなくなった。体調自体は回復していたのだけど、ともかく声がでない。それで会う人会う人「大丈夫ですか?」と心配される。「だいじょうぶです」と言うものの、その全ての文字に濁点がついて擦れたような声なのでまったく説得力がない。ようやく今日になって落ち着いてきた。やけに暑い一日だったからかもしれない。雨が続いていた週の前半から、いきなり半袖でも大丈夫なくらいの陽気になった。季節感がよくわからなくなってくる。晴れることは良いことだけど。


昨日。いつものように娘に早く起されて、それで7時過ぎには朝食を食べ終えたので、買い物をしなければならなかったものがあったついでに散歩にでかけた。娘はテレビを観ると言ったので、一人で出歩く。朝の散歩。サラリーマンや子供たちで、でかけている人たちもいる。近所の大鳥神社に参ると、スーツ姿の男性もやってきてお参りして足早に出て行った。毎朝の習慣で来ているのかもしれない。24時間営業のスーパーのある明治通りまで歩く。木々の緑がきれいだ。ここ最近、この季節の緑色の葉っぱの色の鮮やかさになんだか目を奪われる。好きな季節だ。買い物ついでの散歩は愉しかった。その後、娘を幼稚園に連れて行ったのだけど、その途中、路上にできた木漏れ日の影がなんだか猫のような形をしているのを見つけた。


録画しておいた映画「ファンボーイズ」を観た。スターウォーズのエピソード1を公開前に観ようとルーカスフィルムに忍び込んでフィルムを盗もうとするファンの姿を描いた話。ともかく俳優の顔がすごい。なんというか、良い意味で華がない。良い表情してるし、パンツ一丁とかになるんだけどその体格もまただらしなく、なんというか、熱心なスターウォーズファンの、ディフォルメした感じを体現したような見事なキャスティング。いわゆるアメリカ的なジョークのような話で、こういう嘲るような感じなのに、それでも嫌みではない感じなのは、根底には愛があるからなんだろう。熱心だからふざけるし、熱心だから馬鹿にもする。なんにせよ徹底的。だから最後の台詞だってああいう風にいうんだろう。脚本はいたってシンプル。もっと泣かせるような方向にも持って行けたのだろうけれど、その辺は極力省いていく。言葉で説明するではなく、行為が次々と展開していくことで物語を進行させる。それが良い。で、ロードムービーってところがやっぱりいいなぁ。面白かった。


で、今、時間は深夜2時になろうとしているけれどどうにも眠れず。というのも、4時くらいには起きねばならずいっそこのまま起きていようかと思っている。朝6時の東京発の新幹線に乗らねばならない。起きれるか気が気でない。


なんの気なしに、本当にたまたま、なんとなくこの日記の編集画面でリンク元などを見てみた。詳しい機能のことは知らないのだけど、このブログをどういうリンクから開いたのかを知ることができる。すると異常なほど『国府理』さんの名前から見た人が多かった。なぜなのだろうと思ったところ、国府理さんの訃報のニュースを知る。青森で個展を開催中に、お亡くなりになってしまったとのこと。それが4月29日のことだと知る。僕は熱心なファンというわけではないけれど、福島聡さんの漫画『少年少女』の1篇、大好きな作品『自動車、天空に。』で国府理さんの作品の車が漫画の中で描かれていて、そこからとても興味を持って、国府さんのブログやYoutubeなどで作品を拝見させてもらった。活動の拠点が関西のようで、直に作品を観ることができなかったけど、写真で観る作品や、国府さんのブログの言葉などにいつも刺激を受けていました。関西を活動の拠点にされていたので、個展などの情報は知ってもなかなかいけなかった。この目で作品を観たかった。観に行くべきだった。その言葉にもいつも刺激を受けていた。

私は、アートは何かを指し示してくれたり、信じる対象ではないと思っている。各々が考え、自分の中に何があるのかを確認する。作品はそれを映す鏡みたいなものだと思っている。

以前、ブログに書かれていた言葉。作品を作りながら、思考することを止めない姿勢。青森での個展開催中の訃報。展示作品の中で発見されたとの報道。最後まで走り続けていたのではないか。