東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『いきなり冬みたいに寒くなって』

tokyomoon2016-11-13

あっという間に11月も10数日過ぎた。突然寒くなり、周りでも「秋が無く、いきなり冬が来た」というようなことを言っている。


つらつらと日々のことを書きたいけれど、それもままならず日々が過ぎていた。


12日(土)。仕事のご縁があって、日本劇作家協会が主催する『月いちリーディング』を初めて観る機会を得て、なんといいますか、戯曲について役者、作者、そしてパネラーとして招かれている作・演出家、さらには一般の人たちからいろいろな意見を交わすことの面白さというものを感じる。及ばずながら自分も私見を発表して、発表したからこそ自分の考えに気づくし、さらに他の人の意見も聞くことで作品への理解が広がるし、また自分とは異なる意見を聞くことで刺激を受ける。座・高円寺の地下に大きな稽古場施設があることも初めて知った。素敵だなぁ。ああいう場所で稽古をできるといろいろ充実する。その後、役者、主催者、お客さんを交えた打ち上げにも参加させていただき、いろいろと話ができたのも楽しかった。こういう車座のような取り組みは、なんとも演劇にふさわしい気がする。


それで、久しぶりに高円寺を少しだけ散歩できたのもよかった。商店街が賑やかで、古着屋さんが多いのも楽しい。久しぶりに明石スタジオの前も通った。まだあるんだなぁ。そういえば、明石スタジオでお芝居もやったが、あれは今となってはずいぶん昔だな。で、初めて知ったのだけど、高円寺というお寺があるのに気付いた。よくよく考えれば当然なのだけど。高円寺。そうだよなぁ。お寺だよなぁ。お寺の敷地内は木々が多くてなんだかホッとした。古着屋でいくつか服を物色。娘が着れそうなドテラも見つけた。


アメリカ大統領選の結果に呆然としつつ、ただ、日本の選挙の結果とか、イギリスのEU脱退とか、なんというか、これはこれでここ最近の全世界的な傾向のようにも思える。得票数ではクリントンが上回っていたとしても、定められた選挙法ではトランプが勝つ。それは小選挙区制を布いている日本も同様。ただ、この選挙方法を制定した人たちがいる。ゆっくりと時間をかけて今の形が水面下で作られてきた。うーん。なんにせよだなぁ、これからどんな風にものごとが進んでいくのか。なんというか、積極的にゴリゴリといく人たちが勝ってしまうような土壌がどんどんとできているようで、小さな意見が通らないようになっていて嫌な気分だなぁと思う。


この世の中は広がっていくだけ、広がって、もう広がりきっている気がする。それは資本主義というか成長していかねばならない今の社会の必然のようにも思う。先日、まったく関係なく、とあるテレビを見ており、江戸提灯を作る職人の技を紹介する番組で、文字の右側を上げるように書くという技が紹介されていた。つまり出来上がった文字が右肩上がりになり、それは商売も右肩あがりになるように、という縁担ぎなわけだけど、江戸時代でさえ、やはり意識・無意識かどうかはわからないけれど、商売は成長していくことが願われていたし、求められていた。それは今も形を変えつつあり、それが異常なまでに優先される。資本が優先されるがゆえに、原発やTPPは推進されていく。


そんなことをいろいろと考えるのは、先日、古本屋で岩井克人さんの『ヴェニスの商人資本論』を見つけて、それを購入して読んだからで、これがとても面白かった。シェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』を資本主義の観点から読み解くと、各キャストが非常に興味深い存在として浮き上がってくる。有名な人肉裁判はもちろんだけど、それ以外の一件、さらりと流してしまいそうなエピソードも刺激的に読める。そんな本書の、論考のクライマックスに書いてある文章が印象的だ。長くなるけど、引用。


資本主義ーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追求していく経済機構の別名である。利潤は差異から産まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。(中略)
しかし、利潤が差異から生まれるのならば、差異は利潤によって死んでいく。すなわち、利潤の存在は、遠隔地交易の規模を拡大し、商業資本主義の利潤の源泉である地域間の価格の差異を縮めてしまう。それは、産業資本の蓄積をうながして、その利潤の源泉である労働力と労働の生産物との価値の差異を縮めてしまう。それは、新技術の模倣をまねいて、革新的企業の利潤の源泉である現在の価格と未来の価格の差異を縮めてしまう。差異を媒介するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。資本主義とは、それゆえ、つねに新たな差異、新たな利潤の源泉としての差異を探し求めていかなければならない。それは、いわば永久運動的に運動せざるえない。言葉の真の意味での「動態的」な経済機構にほかならない。
資本主義の前には、したがって、どのような価値体系も孤立し、閉鎖されたままではいられない。なぜならば、孤立が意味する独自性、閉鎖が意味する異質性は、すべて資本主義にとっては際の一形態にしかすぎないからである。そして、差異とは、それがどのような形態をとろうとも、資本によって媒介すべき利潤の源泉にほかならず、そして、ひとたび資本によって媒介された差異は、そのことによってその存在そのものを抹消されてしまう運命にある。すなわち、資本主義とは、かつてはそれぞれ孤立し、閉鎖されていた価値体系と価値体系とを相互に対立させ、相互に連関させ、それらを新たな価値体系の中へと再編成してしまう社会的な力に他ならない。


こうやって考えると、資本主義社会の中で、原発やTPPが推進されることはある種の必然とも思える。つまり新しい差異を作ること。そして孤立を許さず、閉鎖された価値体系は利潤の源泉として、別の価値体系と対立や連関させられて、新たな価値体系が生まれる。それがこの社会では必然となってしまう。

だけど、そればかりでいいのか。例えば、先日NHKの「あさイチ」に届いたFAXが話題になった(http://lite.blogos.com/article/196562/
)。差異による利潤を追求するこの資本主義の中では、ここに出てくる農家の主張は一見すると矛盾する。だけど、この意見に賛同することはこの農家の生計を助けるばかりでなく、ひいては、日本の農業を支える形になる。それは目先のちょっとした利潤ではなく、もっと大きな利潤を生む可能性を持っているはず、だ。だから、今、資本主義を優先するあまりの、異様な選択を改めて見直すべきなのではないかと思いつつ、では、自分はそこになにができるのかと言えば、なかなか出来ることもないのだけど、それでもこの違和感で、きちんと「気持ち悪いなぁ」と踏みとどまっていたいとは思う。