東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

68年という時代

というわけで、夜勤です。
映像は、今月の31日に札幌でパーティーをやるWさん本人に渡すんだけれども、それとは別に、当日にやる小ネタを今まで考えていた。これに関してはA管理人にも、これからの半月でめちゃくちゃ手助けしてもらうつもりでして、詳しくはもうすぐ何らかの形で連絡します。

それにしても昨日のマツケン問題に関するYしゃんの反応のすばやさはなんなんですか。1時間も経ってない間に返信しているよ。これ、Yしゃん、あなた仕事中じゃないのかい。仕事を置いても言うべきことだったとは。

僕もちょっと言葉足らずでした。YしゃんやA管理人とか、見知った方々がマツケンと言う分には『どんとこい』なんですが、それを、まったく知らない人々に発信するときに使うのはちょっとはずかしいなぁと思った次第でして。いや、それはもう至極個人的でして。こうなりゃ、どんとこいです。

そういえばこれもけっこうどうだっていい話なんですが、今埼玉テレビというローカル局で毎週月曜21時に『どうでしょうリターンズ』がやっております。知ってる人はピンとくるのかもしれませんが、今は『試験にでるどうでしょう』というシリーズで、今週までヤスケンこと安田顕が48時間軟禁されていました。やはり一度でも北海道で暮らしていた身としてはそこはかとない懐かしさとともに、見ている次第です。

で、話は変わります。
ラストエンペラー』で有名な映画監督ベルナルド・ベルトリッチの最新作『ドリーマーズ』は68年という時代に生きた若者を描いた作品だそうで。

68年。これはおそらく今後も歴史上に刻まれる年で、忘れることはないのだろう。つまり世界的に若者達が決起して、世界を変えようとした時代。日本では60年安保が、一度終結してから、再び70年安保が起きるきっかけなのだろうか。勉強不足で詳しく知らない。その当時学生だった方々にとって(今の40代後半から50代の方々か?)はいろんな意味で忘れられない時代だろう。

かつて本気で革命、世界は変わると信じていた若者達がいて、彼らは時に過激な暴力で体制に立ち向かっていた。きっと70年前後とは、まだ『本気で世界が変わると信じれた』時代だったんだと思う。以前1980年代について書いたとき、ある劇作家の言葉を『1980年はまだぎりぎり未来を信じれた時代』という言葉を引用したけど、だからそれ以前の時代には『信じること』に力を費やすことができる時代だったんだと思う。

それが東大紛争や連合赤軍よど号事件、そしてあさま山荘の事件につながってしまう。そういった事がでは「正しかったのか?」といわれたら僕にはよく分からないし、そういう括りでこの流れを見たくない。確かにそこには暴力の連鎖があり、人も死んでいる。そういうことはあってはならないことだろう。だけど今の僕と変わらない年齢の人たちの、そういう衝動、湧き上がる力、情念のようなものに、僕は強く引かれる。その時代を生きてない僕には資料を読むことしかできない。事実は体験できないから、知るしかない。だからその当時を生きていたはずのベルナルド・ベルトリッチが生み出した『ドリーマーズ』には興味がある。あと同じ時期に村上龍の『69』が映画化されているのも何か偶然とは思えないものを感じるし。

時代は違えこそ、同じ年代の若者達が、同じように20代を生きている。根底にあるものは一緒のはずだ。以前引用した青山真治さんの言葉を使うなら『確かに親殺しは文学から姿を消したけど、だからといって親殺しの時に生じるような情念が失われたわけではない。外見としては姿が変容した『ナニカ』が今の時代にも間違えなくあるはず。ただ、まだ親殺しの存在が許される(信じれる)時代にはその時代だからこそ、見える姿で出現する。

僕は68年とか、そういう時代については高野悦子さんの「20歳の原点」(新潮文庫)と立松和平さんの「光の雨」(新潮文庫)といくつかのネット(無限回廊http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/m.htm高野悦子について書かれたこのページhttp://www12.ocn.ne.jp/~chi0010/しか見たことがない。)見るたびに何か言いようの無い思いに駆られる。1968年に生きた僕と変わらない年代の人たちの、内にある情念。そして1979年に生まれた僕にある情念。

誰かの言葉で、今という時代について『終わりなき日常を生きろ』といっているのがあった。きっとその当時とは違うんだろう。信じるとかそういうことばでは表せない時代なんだろう。でも、きっと内に秘めた情念は変わらない。表に出てくる姿は変わっても、変わらないのだ。

だから、そうだからこそ2004年、終わりなき日常を生きる僕でも、何かを書きたいと欲する。そうなんだ。