東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

眠気に抗い、諸々について書く

というわけで海の日だ。
だからって、海とは無縁な一日だ。
だって今日も仕事。海に行きたいもんだ。

やはりこの前の件で猛然と反省。というのも何よりも親に心配をかけてしまったから。今までも、親には心配をかけてばかりだし、よけいな事で気を揉ませることは嫌だったのに、またもやしょーもないことで迷惑をかけた。もっときちんとせにゃいけない。少なくとも親を泣かすようなことだけはもうやめたい。

で、日曜日再び出頭。事情徴収などをうける。そのときにいっぱい写真を撮られた。あの「踊る大捜査線」のオープニングの織田裕二とかが写真撮られるようなカットのアレみたいに。あと指紋もいっぱいとられた。自業自得とはいえ、僕のデータがこれで警察に蓄積されたことになる。埼玉で今後起きる事件で、僕と特徴が似ている人物が仮に容疑者だったりしたら、僕のデータが使われる可能性もあるのか。いや、よくわかんないけど。

まぁなんにしても、猛反省。きちんと自転車も購入した。

で、そのあと3月に芝居を一緒にしたKさんが台本を書いて、3月の公演でダンスの振り付けをしてくれたHさんが演出をした舞台の手伝いをしにいった。そこで僕は「あ、マツケンが来た」と言われた。まぁ確かにマツとケンはかぶってますがね。芝居のほうの感想はどうだろう。

今回の芝居は役者の肉体を、役者が舞台に立つことを全面に出している気がする。それほど役者の肉体は信じるに値するのだろうか。もちろん役者自身は舞台上に立っている自分を信じるべきだけれども、観客はそんなに全面信じれるかな、と思う。不意に舞台と客席に距離感を感じるときがある。それはやはり舞台上で、実際の日常ではやらない動き、言わない言い回しをしているからかもしれないけれど、そこに舞台からの投げっぱなし感を感じてしまう。結局、演出家が示したかった世界を作るには役者の肉体がまだ不完全で、あとその世界を作り出すための情報が足りなかったのではないだろうか。作りたい世界は分かる。だけどそこに「ある世界」をリアルだと思えなかった。何かもう一つ欲しい。役者の肉体を信じきれなくても発生する、もっとうねりのようなもの。底のほうに流れている情念のようなものを。そういうものを僕は作りたい。

野田秀樹鴻上尚史が出現させような80年代の役者を中心に据えた芝居は2004年の今だからこそ、また違う姿で出現しなければならないと思える。

まぁあまりまっとうなことは言えない。それにしても今お金を入れているのはみずほ銀行なのだけれども、昨日今日とみずほ銀行はお金がおろせなかった。だから昨日、芝居が終わってバラシ作業を手伝った後の打ち上げにでるのを丁重に断ったら「心配するな」といわれて、少し顔を出したら、あやうく終電に乗り遅れるところだった。最初は「終電でかえればいい」というけど帰らなくてはならない時間になった「まぁいいじゃないか」ときた。いやいや、明日は仕事だしよとここは断固帰った。付き合いが悪いと言われても、だって仕事あるし、おかげで今も眠い。

今日の午前11時にNHKでやっていた熊野、吉野、高野、最近世界遺産に登録された紀伊山地の付近のことを紹介した番組はよかった。今一番行きたいのはこの辺だ。

あと7/20日号の「SPA!」の笑い飯のインタビューでの、笑い飯の自信に溢れたコメントもよかった。自分が作る笑いに絶対の自信をもっている。その作ろうとする笑いの方向も潔い。「あいつらのネタ、屁みたいなもんやなっていわれたい」とベタである笑いを追及しようとする姿勢もいいなぁとおもう。

あと7/24号の週刊現代のメディア通信簿の森達也さんのエッセイも痛快。テレビ番組の内容に対しての、善意の名を借りながら主語を喪失したテレビ局への抗議に対して批判している。自分という主語を使わず、この番組は子供によくないとか、このご時世には不謹慎とかいう言葉の背後にある、無責任さ。『子供に見せたくない番組」と自分が思うならチャンネルをかえればいい。テレビに何を求めている。番組を選ぶ権利は自分にあるのだ。批判をする場合、まず一人称は自分にならねばならない。そこから動き出さず主語を「我々」や「国家」「視聴者の代表」とか言うことはねじれた感情の暴走をうながす。自分ひとりの立場から立ち向かうこと。自分の立っている場所を明確にすることが必要だとう森達也さんのコメントはもっともだ。

なんだかいろいろ考えるべきことはあるけど、まとまらない。
眠くてしょうがない。