東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

be found dead

昨日の夜、池袋シネマ・ロサでやっている宮沢章夫さん総監修の「be found dead」という映画を見に行く。

正確に言うと、受付の手伝いにいった。で、ついでに見せてもらえた。受付といってもやってくるお客さんにパンフレットを配るだけで、そんな簡単な作業をしただけでタダで見せてもらった。心意気的にはいいもの見れるのだから正規料金払っても全然構わなかったんだけれども、見せてもらえるってことなんで、思いっきり甘えました。強がらない、強がれない男がいました。恐縮です。

この映画、以前からこの日記で書いている宮沢章夫さんの作品「トーキョー/不在/ハムレット」のプレ公演のその2でして、以前のリーディングに続く作品。でも、その間に文学界に小説版の「秋人の不在」も発表しているし、本当に世界がどんどん構築されている。

映画は全5話のオムニバス。それぞれ死体を見つけることになった人々の物語であり、各話、別々の監督がとっている(宮沢さんはその内2本を監督して、総合監修だったとおもう)。リーディングや小説などと直接関係しているのは5話目の「川」という宮沢章夫さんが監督している作品で、物語の最初にあたる、少女の死体が利根川を流れているのを発見する男の話だ。他の作品は本編とは異なる世界であるものの、どの作品も死体となった人の物語ではなく、死体を見つける側の世界を描いている。どの作品も刺激的だけれども、特に4話目の作品が好きだった。4話目を監督していたのが富永昌敬さんという方で、ちょっと前に「亀虫」という映画を作って注目を集めた若手映画監督だそうだ。僕は見てません。

とても面白かった。話の中に本当にふざけているんじゃないかと思える会話やシーンがあるんだけれども、それがただの冗談で終わらないし、かといって不条理とかとも違うような、なんというんだろうか、気がついたら富永さんが作っている世界観に引き付けられている。若い人の作品をみるとき時々ある、「ここ、映像こだわってるんですよ!」みたいなおしつけがましさとかも一切ないし、それでいて世界を捉える目線、つまり映像、カットの一つ一つがすごいと思えてしまう。水槽を泳ぐ魚を、死体を捜す男達の絵の中に何カットか、はめ込むところや、車のバックミラー越しに、歩いていく男の姿を映すところなどいくつもうまいなぁと思うところがある。

以前、武蔵野美術大学で映画を作っている人たちから役者として自主映画に出でくれないかと頼まれて、これも経験だと思い、参加したことがある。学生さんはみんなスタッフ。学生さんから「いやぁ自主映画作りたくても役者が足りないんですよ」と言われた。映画を作りたい学生さんはみんなスタッフとして映画に参加したいらしい。だから映画の世界では役者さんがとても丁寧に扱われる。僕も水とか用意してもらって恐縮した。みんなどのように照明を当てるか、どのように音をひろうか、どこからカメラをまわすかをいつも話し合っていた。芝居の場合は役者からはじまる。スタッフは後から外部に頼んだり、大学のころなんて役者で出ないやつが交代でやるといった具合だった。同じように何かを作り出していても、そのスタートというか、とっかかりが映画と演劇では違ってくる。そういうことが面白い。

今日も手伝いに行くので、そのときにもっと細部まで凝らしてみてみる。カット割とか照明、画面の色合い、つなぎ等等。見ているだけで本当に勉強になる。

あと、本編につながる5話目の少女の死体が川に浮かんでいる映像は、本当によかった。5話目は白黒画面で物語が進行するのだけれども、中盤に少女の死体をカメラが足元から顔の方に移動していくときに、ゆっくりとカラーになる。水は無色透明だけれども、少女の衣装が深い青で、少女の白い肌の色と深い青と水草の緑が白黒になれた目に鮮明に飛び込んでくる。水のその透明な流れさえも色鮮やかに写しだされるようで、死体がある風景にもかかわらず、美しいとさえ思える。なんというか神秘的なものに見えてくる。実際の水死体ってきっともっと醜いものになってしまうんだろうけど、そうじゃなくていい。きっとこの物語で、この少女は、きれいなままで川に浮いてなくてはならないのだ。そこが映画だ。映画の美しさだ。それがムラの共同体の持つ力に畏怖を持ち続ける人間の中で、唯一もっと大きな力でこの世は動いていることを、少なくとも自分はその大きな力の中に委ねられていることを実感できた少女の、その姿を映し出すにはもっとも適していたはずだ。とは言っても見てない人には何もわからない。うーん、小説を是非。なぜに僕はこんなにも人の本を薦めているのか。ラストには小説でも載っている詩人と呼ばれる女の独白にのせて舞台となる埼玉県北川辺町の田園風景や町の景色が流れる。とてもうつくしかった。本当にきれいな映像を見た。

で、話は変わり、昨日一緒に手伝いをしていた男の人と、準備しているとき談笑をしていたら、僕が9月にリーディング公演をやる話になり、その男の人は芝居は一度もやってないのだけれでも、お芝居も興味があるというので、じゃあ9月一緒にやりませんかと、思いっきりノリで聞いてみた。僕の方も、その人の顔立ちや雰囲気がなんとなくいいなぁと思ったので。もちろん急に決められるわけもなく、少し考えてくれることになった。で、そうやっていろいろ話した後に、お互いハタと気づいた。「すいません、お名前は・・・?」お互い名前も知らずにしゃべっていたのだ。俺も誘っているくせに何も知らなかった。なんだかおかしな話だ。

またもや話は変わる。日曜に手伝いをしたお芝居で、僕のことを「マツケンサンバの人ですよね」とその日だけで10回以上言ってからかっていたYさんが、その日の公演で足を骨折していたことを今日になって聞いた。まぁそれほどひどくなかったのだろうから、打ち上げにもいたのだろうけど、しかし折れているって大変なことだ。芝居を続けた精神力もすごい。骨折は痛いだろうな。恐ろしいことだよ、骨折は。なにせ骨が折れてるわけだから。というわけで僕はこれを勝手に「マツケンの呪い」と呼ぶことに決めた。「マツケン」を簡単に馬鹿にしてはならないのだ。「マツケン」に秘められたその恐るべし力。何人であっても侮ってはならないのだ。多分。