東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

入道雲と天皇について

修今日の昼間、外を歩いているときに今年初めての入道雲を見た。
入道雲をみるとなぜかドキドキする。なぜかはよくわからないけども。
夏の空にモクモクと膨れ上がる入道雲を見ると、なんだかわくわくして、気分が高揚してくるのだ。

そんな高揚した気分で買い物に出かけた。一応31日のパーティーに向けての買い物。
仮装はしていかないけども、夏らしい格好で行こうと思い、いろいろ購入。

で、今日は夜勤。8月からは夜勤が火曜に変わる。水曜夜勤はとりあえず今日で終了。台本も手につけないでなんだけれども、昨日書いた天皇のことについて少し書く。で、この前少し紹介した群馬に住んでいるという松本さんという方のblogに書いてあった天皇についての文章を引用したり、宮台さんの文章を読んで考えたことを書く。宮台さんの文章は転写禁止と書いてあったので引用しない。しかられたら嫌だから。松本君のはすごい勝手に引用してみる。まぁばれないだろう。

二人とも最近の皇室問題について触れているけれど、松本君はちょっとまえにテレビ『朝まで生討論』で皇室問題について朝まで生で討論した会の感想から始まる。

猪瀬直樹は今回,すごく輝いてたと思う.イライラチクチクしてる雰囲気はあったけれど,すごくよかった.彼の意味したところというのは,つまり天皇家はフィクションであるということ.民間から嫁いだ美智子さんも,「皇室」という隠れた特別な場所に保管されることによってフィクション性を帯びるのであって,そうすることで皇室という大きな物語が形成されるのだ,ということ.これを宮崎哲弥は「ファミリー・ロマンス」と形容し,「テニスコートの恋」という演出に言及したんで,あたしゃーもう楽しかったっす.』

これはつまり、天皇家が日本の家族の象徴的な役を演じているという大胆な仮説のもとに成り立っているというもので、それまでお見合いやお家間での結婚が当然だった日本が、昭和に入ってから自由恋愛による結婚が増加していき、それに呼応するように平成天皇は、美智子様とテニスコートで出会い、恋に落ちて結婚するというシナリオを演じたというもの。で、平成になり女性が社会に進出を始めた時代になると、さらに発展して働く女性、キャリアウーマンと結婚するというシナリオを作っている。そういう風に天皇家はその時代その時代の象徴をきちんと演じているという仮説だ。だからまぁそういう仮説でいくのならば、今回の問題も突き詰めれば、妻が結婚したら主婦に落ち着くか、結婚後も働くかという平成の世の女性の問題の典型を演じているってとこか。

その後に、松本君は天皇というものが日本人にとってどういうものなのかというのをこう書いている。

『やっぱり「天皇」っていうのは文化であって,それは言い換えれば「装置」,「制度」,「社会」なんかなわけね.つまり,システム的であるということ.』

つまり、天皇制は悪いとか、良いとかの賛否両論が仮にあるとしても、それは例えば「僕はサッカーは好きじゃないな」みたいな好みの問題みたいなもので、サッカー自体を認めないというような、その存在自体の否定をするではない。かといって今の日本人は天皇制があることに対して積極的な肯定をするでもなく存在を認めているけれども。ある意味で、生まれたときから当然のようにあるもの、あったものであると無意識に認識しているものではないかと。似たようなところで宗教的だという意見もある。例えば日本人の多くは無宗教だけれども、キリスト教の存在に対して別に異議を唱えるわけではないみたいな。で、松本君は続ける。

『で,文化だったら文化だったで何なのさ,ということなんだけれど,これはつまり,「天皇っていう実体はありませんよ」ということ.「天皇」という括弧付きの「文化」は存在するけれど,個体としての天皇はいません,という.そういう世界なはずなんです.』

これに関連したことを『昭和の終焉』(昨日文春文庫と書いてました。正しくは岩波文庫でした)で折原修三という人の以下の文章が載っている。

天皇制の本体とは空虚な中心である』すなわち天井から円光が落ちており、そのスポットライトの中に人影がなくて、ただ座だけが白々と浮かび上がっている。しかしこの空虚な中心としての座はすさまじい吸引力を持っている。そのために周りにはさまざまな権力が渦巻いている。』

他にも栗原彬さんはこう述べる。

天皇制という概念はモジュール(*交換可能な機能的な構成単位の意)として、政治的、イデオロギー的、文化的文脈と合体して政治、経済、文化、社会に幾重にも織り込んでいき、最終的には人々の身体の受信装置によってそれが受容される。それが天皇の身体に投影されて返していく』

繰り返しになるけど、つまり、日本人にとって天皇という存在は賛成であれ反対であれ、とりあえず存在だけは間違えなくしおり、その存在が様々な場所で僕達に関わってくる。そのように関わることで、昨日書いたみたいに僕達は天皇になにか僕達には持ち得ない力があると漠然と信じ込む風潮がある。で、宮台真司はそういう力を備えている天皇という『装置』がありとあらゆる時代で利用されてきたのだと述べている。明治初期、岩倉具視を中心とする明治政府が天皇を担ぎ上げたのも、戦後、GHQが中国やソ連の反対を押し切ってでも天皇を処刑せず、象徴天皇として残したのも『装置』としての天皇の機能を戦後の日本復興のために利用するためだと述べている。

そういう見方のすべてが正しいかは僕には分からない。だけど例えば今回の皇室問題で大半の国民の意見が皇太子や雅子様擁護寄りであるのは、やはりどこかに天皇家に対して親しみの感情を持つ人がいるからのはずだ。宮台真司はそういう感情を持つこと自体を否定しているわけではないが、安易にその方向への向かうことには難色を示している。詳しくは是非本文にあたってもらいたい。

松本くんはその後、天皇制の存在について男子継承や家族制について述べており、宮台さんは安易な発言をすることの異議を唱え続ける。で、俺は何が言いたいんだと言われたら、確かに何も言うことはない。明快な結論を述べるには知識も少ない。それにこの問題は天皇制はアリだとかナシだとかの一極的な結論でしか括れない問題では無い気もする。

中上健次さんが天皇について書いた記述がある。それによると昭和天皇が亡くなったときに中上健次さんのお父さんはその訃報を聞いて涙したという。中上さんとお父さんは被差別部落の出身だそうだ。父親が涙を流したことについて中上さんはこう書いている。

天皇の時代を一個人一兵卒として背負ったものの自然の涙である』

被差別部落がどういうものか僕は知らない。だけど彼らは有形無形の差別を被り、目撃し、人権を侵害することや醜い差別現象に生涯戦い続けるしか生きていけない宿命を刻印されている者だと自分を認識している。日本社会は天皇を頂点とする樹木状の世界であると発想することができる。しかしこの樹木状のものを横に倒す発想に基づくとまた違う見方ができる。

両横に位置し、社会をブックバインドのように挟み込む天皇被差別部落は、さながら日本の社会の二つの外部の形をとると考えられる。こうなると天皇もまた差別を被る場所だということになる。遊行の人やさまざまな被差別者が、天皇に出自を求めるのは、この横に見る発想からである。そう考えると父親の流した涙の意味が分かる、と述べている。

一つのものは見方によって様々な見方がある。それは見る人の立場でもまた異なる。僕はそれらをできる限り拾い集めて考えてみたい。そうやって考えることで次の何かが生まれると僕は思う。

昨日、Kさんの芝居についてここに書いて、今日やはり気になっていたのでそのことを聞いてみた。KさんにはKさんの考え方があったそうだ。それは話さないと気づかないものだし、話してみて良かった。いろいろな人がいろいろな考え方を持っている。Kさんの考え方はまた僕とは違ったけど、それはそれで勉強になる。他にも少し芝居のこともしゃべった。楽しかった。

話は変わって少し宣伝です。以前ここに書いた劇団ミヤコハンターのインターネット公演(YAHOO!でミヤコハンターで検索するとミヤコハンターWebとでてきます)の28日目の『櫻田新曲PV』という作品にちょっとだけ出演してます。30日までの期間限定公開なのでよければ見てみてください。女の子にひっぱたかれる男が僕です。