東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

台本ができた

昨日、台本が書きあがった。とりあえず第1稿のつもりではあるものの、どのように作り上げていくべきか、よく分からなくなり、とりあえず稽古場で役者さんに通して読んでもらう。

1時間30分かかった。これをどう判断するか。僕が理想とする芝居の時間は1時間半だ。根拠はないけど、そのくらいが一番見やすいからで、それは作品の内容云々よりも、客から見た場合のいろいろなことを考えたときの長さだ。特に今回は会場が狭い。お客さんの椅子は丸椅子だ。背もたれすらない椅子に座らされて、あげく狭いときたら、これはもうどうしたものだろうか。あと、やはりリーディングという芝居の形態も、少なからず気になるところだし。

ただ、このシーンを丸ごとカットしようと思える場所は今のところなく、昨日出した結論としては、部分ごとにシャープに作り上げて、それをきちんとつなげていく。そしてトータルとして、全体の完成度を上げていく、と、それは当然の話だろという結論に至った。

とりあえず、土台はできた。そこに柱を立てていく。読むことに慣れてもらう。作品の世界を体で覚えてもらう。そしてすこしづつ動きをつけていく。

言葉の問題は難しい。例えばナレーションとして読んでもらうところと、台詞として他の人と対話をするところでは、言葉がやはり異なっていく。とくに対話の場合で、聞き心地の悪い言葉がある。どうして聞き心地が悪くなるのか。それはやはり対話になっていないからだろう。つまり話し言葉じゃないんだな。説明ぜりふになっている。それは俺の文章の下手なところなのだろうけど、じゃあそれに変わる言葉といわれると、それがうまく見つけられない。どうしたらもっとちゃんとした対話にできるだろうか。あと、やはり言葉から逃れる言葉だ。どうしたら、言葉だけが頭でっかちにならない言葉を紡げるのだろうか。何度も読んでもらおう。僕はそれを聞く。聞いて、捨てるものは捨てていく。もっと削れるところがあるはずだ。かといって、それは時間を減らすために削るのではなく、あくまでも完成度を高めるためのもの。削れるとこすべてを削っても1時間30分前後になるだろう。だったらとことん完成度をあげるしかないわけだから。

ロシアの学校の人質事件は、やりきれない。人間は平等に無力だ。子供でも大人でも、年齢なんて関係ない。僕は何もできない。この台本を書いたところで、この事件にはなんの影響もない。無力というか、無関係だ。僕がモノを書くということは、世界がまわっているところと無関係にある。それがいいのか悪いのかはわからない。ただ無力。それでも書く。それはもう、自分のためでしかない。