東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

物語を書くこと

というわけで夜勤。
このBBSが消滅するらしい。どうしたもんかと思うけれども、まぁあまり詳しい事情は分からないのでA管理人にいろいろ委ねてみる。

ただある意味区切りかもしれない。まぁ日記は続けるけれども、このBBSに書き続けるのは少々考え物だなとは思っていたので。はてなダイアリーの方を続けてくれるなら、本格的にそっちだけに移るのもありかもしれないけれども、その辺は少しA管理人と相談することにしよう。

呆然とした日だったものの、見たかった映画マイケル・ウインターボトム監督作品「code46」を銀座テアトルシネマで見る。主人公の女性を演じるサマンサモートンがすごく美しい。あとティムロビンスがでかい。こんなにでかかったのかティムロビンス。そして何より音楽がいい。かっこいい音楽を使うなぁ。近未来のラブストーリーという触れ込みだけれども、それは確かにそうだけれども、きっと監督さんはクライマックスであるサマンサモートンの「Iloveyou」を言うシーンを撮りたかっただけなんじゃないだろうかと思うくらい、そのシーンは印象的だった。それにしてもサマンサモートンはきれいだなぁ。絶対に物語は後から作られたと思う。監督さんはサマンサモートンに「Iloveyou」を言わせたかったからこの物語を作ったんだ。ティムロビンスのでかさも絶対に確信犯だ。それと近未来の舞台が上海というのも印象的だ。やはり世界的に見ても上海というか中国の発展は急成長で、進化している部分と取り残されている部分の差が尋常ではないのだろう。だからこそ映画の中で描かれている「内」の世界と「外」の世界という内外の貧富の差を出すのにも、近未来の世界を描くにも上海が適していると考えたのではないだろうか。

芝居が終わってから、ずーっとこれからのことを考えている。それはもちろん今のところ次の予定がないから、それをどうするかということもあるけれども、一番は「何」を「どのように」書くかだ。リーディングという形態で1時間30分の芝居を作ったものの、果たして一番最初に挙げていた課題としての「言葉から逃れる言葉」は書けていたのか。そして中上健次さんの文体を真似したいとは思ったものの、そこに辿り付けたのか。その上に展望は見えたか。まだよく分からない。今思うのは舞台にあげたこの作品をもう一度少し手直ししようと思うことだ。稽古を通して書き直したい部分があったのもあるし。もう少しきちんと完成させたいとも思う。それは例えば小説にできないかとも思うけれども、それも少し考えている。逆もまたある。つまり本格的な戯曲として書くということ。リーディングとしてではなく、作ることもまたできるはず。そういう作業もできたらいい。ただ、やはり「平和」はちとでかすぎた。テーマありきで芝居を作るのはやはり考え物だ。しかも「平和」はなぁ。もちろんその言葉から喚起された物語ではあったものの、最終的にはやはりそのテーマのでかさに見合うために、スケールというか、世界がでかくなってしまい、なんだか大げさなことになってしまった気もする。もっと個人的な話に落ち着かせたいと思う。そうなるとやはりテーマありきで芝居を書くことにしんどさを感じる。展覧会が終わったあとに、メンバーのTさんから次に展覧会をやる機会があったらまた芝居があると展覧会のハバが広がるよと言われ、Iさんからは他の出展作品や音楽と芝居をコラボレートして作品を作ろうと言われた。それは確かに面白そうだけれども、やはり展覧会で芝居をすることの窮屈さを感じたのも事実。リーディングを経て、やはりもう一度芝居に立ち返りたいと思った。それは一人からもう一度作っていくこと。場所を借りたり役者を集めることはしんどいけれども、それをふまえても、今一度個人に戻って、芝居を立ち上げたいというのが本音だ。

台本を書く。そこから始めようと思う。課題はいくらでもある。まだ言葉から逃れる言葉を作れていない。文体だって、作風だって憧れている人の模倣でしかない。まだ確立されたものなどない。少しづつ掴めて気はするけれどもまだまだだ。あと、物語を作ることもそろそろ考えなくてはいけない。もう物語は必要ないんじゃないだろうか。例えば水の流れは山の頂の原水から始まり、やがて海へとたどり着き終わる。それはもう分かっている。描きたいのは、どういう流れを経て海へたどり着くかの過程だ。つまり川の形だ・・・と思っていた。だけどそれすらいらないんじゃないだろうか。それを書くのも大変だ。川の輪郭だけで1時間30分なんてあっという間だ。今回は輪郭が精一杯だった気もする。もっと描きたいのは、川の一部分だけでもいいからその流れであり、うねりなんじゃないだろうか。川の表面は太陽があたって光り輝いていたとしても、中の方は激しい流れがある。光も届かない底の方では、また違う川の姿があるだろう。その一部分の表層から奥底までを見つめる目線や手を伸ばすことが重要なんじゃないだろうか。物語ではなく、そこにいる人の感情のうねりだ。きっとそれを表現している劇作家さんは岩松了さんであり、平田オリザさんなのではないだろうか。物語を解体すること。しかしなぁ、物語ってしまうんだよなぁ。ならばまた違う描き方もあるはず。それが自分のカタチになるのではなかろうか。そういうことを見つけるにも書き続けるしかない。

もっと戯曲も本も映画も見る。まだまだ足りない。ギャラリーに向かう途中で古本市をやっており、そこに中上健次さんのエッセイ「夢の力」(角川文庫)があり、すかさず購入。まだ少ししか読んでないけど、ことごとくすごい。たどり着きたい頂は少しづつ見えてきている。そこへたどり着くための知識を積む。修業だ。まだまだこれからだ。