東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

竹を運んでいた/華氏911

昨日、仕事を休んで竹を取りに行っていた。
というのも、友人達が結成している劇団ミヤコハンターの公演が今週の金曜からあり、それの舞台の道具を劇場に搬入する為に、車の運転を頼まれたからで、昨日は2tトラックを1日中運転していた。で、竹だ。僕自身、今回劇団ミヤコハンターがどんな芝居をやるのか知らないので何ともいえないし、公演前に何か言うのも失礼なのであまり言わないけれども、どうやら舞台装置で竹が使われるらしく、そのために竹が必要なのだそうだ。竹を取りに行く。なんだか何ともいえない仕事だ。もちろん竹ばかり取りに行くわけではなく、その他の舞台装置や照明、音響設備、小道具なども運んだのだけれども、本当に1日がかりだった。劇場のある中野のレンタカーの店で2tトラックを借りて、竹を取る為に神奈川の大船まで行く。同伴するのは舞台監督さんのYさんと、その竹でオブジェを作るKさん。Kさんは生け花を教えている方で、劇団員に友人がいるらしく、今回オブジェ作りに協力をしているのだそうで、なんというか持つべきものは素晴らしい才能を持つ友人なのです。Kさんはオブジェを作る為に、大船に住む知人の寺に生えている良質の竹を使うそうで、すでに何度も大船に足を運んでは竹を選んでいたそうで、今回で7回目の大船だそうだ。すごいことだ。

僕はというと初めての2tトラックの運転に手こずるかと思いきや、最近の車は便利な作りになっており、なんとスイッチ一つでクラッチを押さなくてもギアチェンジが出来るクラッチフリーなるスイッチがあり、ほぼオートマの気分で運転ができたのだ。ただこれはマニュアルの運転に慣れている方には気持ちが悪いらしく、よくトラックを運転するKさんは「なんか気持ち悪いです」と言ってすぐにマニュアルに切り替えていた。Kさんの家は代々生け花を教えている家だそうで、きちんと○○流という名前もある歴史のある生け花の専門家で、Kさん自身、副家元なのだそうだ。そういう方は自分の作品を作る際には、自分がこれぞと思う花や素材を見つけるまで方々を探し、それを自らトラックで運ぶのだそうだ。だからトラックに乗ることは日常茶飯事で、Kさんは大型免許まで持っているらしい。生け花とトラックがそこまで深い関係だったとは。意外すぎる。

Kさんがトラックの運転が出来る方なので、ほとんど運転をしてもらってしまった。不慣れな僕では絶対に通れないような細い道もあったので本当に助かった。まぁそうなるとなんのために仕事を休んだのか分からなくなるけれども、それでも少しは運転したし、地図も見た。結局昨日は大船〜調布〜早稲田〜池袋〜中野とトラックを走らせていた。全てが終わったのときは23時だった。舞台を作るための苦労は小屋入り前からある。きちんとした舞台を作ろうとすると、それだけ舞台装置もでかくなる。その装置を作り、劇場へ運び、組み立てなくてはいけない。で、芝居が終わればそれを撤収する。なんとも大変なものだ。芝居というのは構造的に儲かるはずがない仕組みになっている。だからこそ、損得では考えられない面白さはあり、そこに懸ける人もいるのだ。それにしても疲れた。

話は遡り、一昨日の夜、一緒に仕事をしているIさんと「華氏911」を見る。で、感想はというと僕はあまり面白くなかった。いろいろな映像のつなぎあわせで、多少驚きのある情報を伝えるだけの作品だった。8/31号のSPA!の森達也さんと宮台真司さんと神保哲生さんの対談での意見を引用するならば、一流のポリティカルマニュフェスト(政治的声明)な作品。監督マイケル・ムーアが嫌いなブッシュ大統領が再選するのを防ぐ為の反ブッシュ、反共和党を高らかに謳う声明として作られた作品は、ご丁寧に大統領選の前に全米公開されて、全世界でも配給された。ちょっと前の噂だと、投票前に全米でDVDがリリースされるみたいな話も聞いたけども、アレはどうなったのだろうか。別にそれがいいとか悪いとか言わないけれども、大統領選の選挙権を持たない日本人からしてみたら、ニュース番組の特集の拡大版を見ているような感覚にしかなれなかった。もちろん、戦争に出兵した息子の訃報を聞いた母親の悲しみや、イラクに出兵していた兵士のポツリとつぶやく言葉には重みを感じるし、イラク戦争の正当性ということを考えさせられる作品ではあると思えるものの、映画として評価できない気がする。ドキュメンタリー映画を語れるほど、ドキュメンタリー映画を見ていないから、そういう真っ当な評価とかは知らないけれども、これを一つの映画して捉えるならば評価は低い。つまり表現の仕方だ。この作品が伝えているものは情報に過ぎない。もちろん、かつて芝居や映画が情報を伝える為の伝達手段であったけれども、今は分極化されて、情報を伝える役目はニュースなどのマスメディアや新聞になっている。アメリカのマスメディアで報じられなかった事実を、映画として伝えたこの作品の、一つの側面は評価に値するものではあると思うけれども、それに徹しているこの映画はもはやニュースでしかない。

映画は、演劇は、何をどのように伝えるべきなのか。マスメディアから離れた今、そこを考えないわけにはいかないはず。真実を伝えてはいけないわけではない。ならばドキュメンタリー映画はないはず。しかしドキュメンタリー映画は存在する。つまり伝え方。手法だ。今年の冬、僕は「ヴァンダの部屋」という映画を見た。とても衝撃的な作品だった。リスボンのスラム街に住むある家族の姿を描いた作品なのだけれども、その町は実際に存在して、その家族も、主人公であるヴァンダもそこに暮らしている。監督であるペドロ・コスタがデジタルビデオを持って、その家族を2年間追いかけた記録なのだ。その点で言うとこの作品はノンフィクションだ。スラムの街で生きる家族の日常が3時間淡々と流れる。そこには奇想天外な物語は存在しない。ただ再開発の為、古い家屋は破壊されており、麻薬常習者が溢れかえる街の残骸のような片隅の家で、主人公のヴァンダもまた麻薬を吸う日々を送っているだけだ。ナレーションも説明も一切ない。そんな放り出された状態。それでも3時間目が釘付けになった。ただ撮り続けるというペドロ・コスタ監督の手法に釘付けになっていた。それは紛れもなく『映画』だった。だからこそ心に引っかかったものがある。

先に挙げたSPA!の対談で自身オウム心理教信者のドキュメンタリー作品『A』『A2』を手掛けた森達也さんがドキュメンタリー映画についてこう述べている。

『僕はドキュメンタリーを間接話法として定義します。つまり実存するものを撮りながら、それにどう暗喩を与えられるかが重要なんです。(中略)ある種のトリックと観客の想像力への信頼と委任がモンタージュの本質。映像はそもそもそんな存在です。真実など撮れない。再構成するんです。だからこそ自分への規範と主体の確立は重要です。』

真実をありのまま伝えることなどできない。カメラに写っている映像のどれもが、カメラマンの意思の向いたフレームを通り抜け、ディレクターの編集を通して発信されている。ナレーションとしてしゃべり続けたムーア。ムーアの意思によって編集された全ての映像にムーアのナレーション(意見)が入り込んでいる作品に映画としての魅力は少ないと感じる。

で、またもや中上健次さんの「夢の力」(角川文庫)から引用。中上健次さんもまたマスメディアと袂を分かつ小説という観点でエッセイを書いている。

『つまり新聞記事とはそれがどんなに事実に沿って書かれてあっても、小説を書くことと同じ創作の類ではないかということである。言ってみればどこで人殺しがあっても、どこで火事があっても、戦争があったとしても、それを事実として受けるリアリティーはない。リアリティーは受け手の、あってしかるべきだ、やってしかるべきだという夢の力でしかない。(中略)小説のリアリティーとはその夢の力ではないだろうか。いやリアリティーと文学言葉を使うのではなく、小説を書いたり読んだりする楽しさ、醍醐味である。書き手は読み手の夢の力を頼って小説を書く。世間では破廉恥でしかない男が、夢の力により、大思想大人生問題の末、人を殺したと書き得る。私はそんな小説が楽しい。』

そうやって一つの事柄を伝えることを述べた上で、マスメディアと小説の違いについて以下のように書いている。

『事実をくまなく提供しようとするのが報道ジャーナリズムの方向なら、小説家はたった一つのヒントを元に、想像力によって思い入れを入れていく。隠された謎が想像力を刺激する。(中略)やはり小説家の武器は、飢えた心と、想像力である、と思う。』

これはきっと映画も同じ。そして演劇も。僕もそこを追求していきたい。物語を作るなら、そこは忘れないでいきたい。