東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『日本語と漫画』

■ 久し振りに荒木飛呂彦さんの『ジョジョの奇妙な冒険』を再読している。といっても持っているのは主人公がジョルノ・ジョバーナの第5部だけなのだけど。


■ 独特のタッチで描かれる絵とか奇想天外な物語の面白さもさることながら、なかでもこの漫画の台詞や擬音語の表現の仕方には興味が尽きない。


■ なにせ「オラオラ」だ。さらに「無駄無駄」「アリアリ」などの単語を発しながら格闘を繰り広げるキャラクターたちにはかなりしびれる。そしていろいろな動作を表現する擬音語として頻繁に用いられる「ゴゴゴ」といった言葉たち。


■ 日本で漫画がこれほどの拡がりを見せている理由のひとつに言葉の豊富さがあるとどこかで読んだ気がする。常用で用いられるだけで漢字、カタカナ、平仮名など選択肢も豊富で、そういう文字をうまく使い分けることで、絵だけでは表現できない奥行きが表現可能になるとか。


■ すでに定番である何も音がしない状態に用いられる「しーん」は考えてみればかなりすごい発明だ。音がない状態を文字で表現しているわけだから。大友克洋さんの名作『AKIRA』が世界的にヒットを飛ばし、その原作本を海外で出版するための翻訳作業の際に苦労したのがこの擬音の表現の仕方だったという。日本語の文字による『表現』が各国の言葉では伝えにくかったとか。特に理解されなかったのがこの「しーん」で、なぜ音がないシーンをわざわざ音で表現するのか海外のスタッフには理解できなかったそうだ。静かなら何も書かなくていいというのが彼らの言い分だった。言われてみれば判らないでもない。だからもはやこの「しーん」は音ではなく絵に近いものであり、言葉では説明できない状態をそれこそ言葉で表現した漫画独特の表現方法とも考えられるのではないか。


■ そういう風に意識してみると英語が口語重視である言葉ならば、日本語はつくづく文語重視である気がする。声に出さなくても目で見てその文字の持つ語感をイメージできる。書道という文化が発達したのもそういう理由もあるのではないか。なにせ文字を書くだけで全ての「道」なのだから。


■ それにしても『ジョジョ』。人が立っているだけのシーンに「ウィーン」や「ビシィ」といった擬音語を書かれた日にゃあ、その表現の豊かさに悦びを禁じえませんぜ。


■ 第五部で特に好きなのがベビィ・フェイスというスタンドを操るメローネという人物が発する台詞だ。

『ドラッグはやってるかい?麻薬をやっているなら もっと君は最高にディ・モールト(非常に)いいんだがなああ 』

台詞自体もかなりクレイジーだけど、やはりディ・モールトにしびれる。あえていれている。おそらくイタリア語なのだろうけど、丁寧に日本語訳まで書いてある。()書きなのがまたいい。既に声に出して言うということは度外視されている。でも、それが漫画だ。この台詞と台詞の表現の仕方がすでに絵と対等な表現として飛び込んでくる。こういうものを味わうのが『ジョジョ』の楽しみ方の一つだ。最後の「ああ」が2つ続くのにも捨てがたい魅力あり。


■ 昨日のこと。仕事後、お世話になっている職場の上司と職場の人々数人で品川に飲みに行く。同世代ではない年配の方と酒の席で会話をしていると、ある流れに沿ってしゃべっていた話でも若干の食い違いが生じることがよくある。でもそういった流れの淀みが返って会話を面白くもする。あとはまぁ酒の席なので礼儀をわきまえたうえで無礼講で接する。それが楽しい。


■ 飲み終わってから最寄の品川駅へ向かって歩いていると、駅前に人だかりを発見。タキシードで決めたがっちりした男達の集団がQUEENの「I Was Born To Love You」の曲に合わせてなにやら踊っていた。その様を観て同僚が「一世風靡セピアみたいだ」と言ったが的を得ていると思った。と、彼らの立っている傍に旗が掲げてありそこには「劇団鹿殺し」と書かれてあった。


■ どうしていいのか分からない心持になる。上司が「芸ごとを学ぶ為に見学してこい」と言ったが申し訳ないが学べることは少なそうなので断った。まぁ、出来る限り推測してみるに、鹿殺しとは「ディア・ハンター」をアレンジして日本語訳したものではないか。で、ディア・ハンターといえば、主演がロバート・デ・ニーロクリストファー・ウォーケンという名優たちだ。もし、そういう由来なら少なからずそういう名優たちを意識して名づけられたのではないかと推測できるが、あくまでも推測。それにしても「劇団鹿殺し」の面々はいつもああやってタキシードを着て踊っているのだろうか。そういう行為はいつ憧れのロバート・デ・ニーロと交差するのだろうか。