東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『メールのうれしいところ/東京画ふたたび』

■ 昨日のメールの件で、日記にもいろいろ書いていたので僕がずいぶんと苛立ってるなと、メールを送ってしまったFさんから返事がきた。それでもその続きに『まぁそういうメールでも久しぶりに連絡をくれてうれしかったよ』と書いてくれていた。


■ 僕はあんまり連絡を取らないほうで、何か用事がないとメールや電話はしない性質だ。それはでも、まぁそれとして、決して無視しているわけではないし忘れているわけでもない。連絡をしないのは元気な証拠なのでと勝手に思っている。もうずいぶん連絡を取っていない友人たちもいる。どうしているのか。でも、きっと元気にしてるんだろう。それぞれ楽しくやってるはずだ。そう思ってる。だからたまにメールや連絡をもらうとうれしかったりもする。今回もそう返事をもらってやはりうれしかった。ただ、まぁ、それにしてもあの手の内容のメールが久しぶりのメールなのは恐縮だけど。


■ そういえば、一昨日くらいに大阪に住んでいる先輩から不意にメールがきた。これもそういえば不可解だった。

加納典明ってムツゴロウ王国で働いていたってほんと?」

なんでもその先輩の奥さんがそう主張していて本当かどうか確認しているとのこと。残念ながら僕はその件に関して何も知らなかった。これは事実なのだろうか。それにしても奥さんは一体どこでこんな情報を耳にしたのだろう。なんにせよ、こういうメールを送ってくるってことは、その先輩は奥さんと楽しい時間を過ごしているわけで、僕はメールをもらってそういうことを感じ取れたりする。メールも受け取る楽しさだ。


ヴィム・ヴェンダース『東京画』を再見。東京物語のオープニング挿入後の新幹線プラットホームのシーンでいきなり度肝を抜かれる。新幹線が巨大な生き物のようで、なんともいえない「運動」をみせる。


固執した考えをしているわけではないが、この映画で映し出される東京は絶えず「運動」をしている。パチンコ屋の風景。ゴルフ練習場の風景。あめ細工工場の風景。竹の子族たち。電車。東京の姿は今とは当然違う。それでもどこか今の東京と通じるものを感じる。普遍のもの。根底に流れてるそれ。たとえばそれはロラン・バルトが「記号」と称した日本の姿と同じものではないのか。「みごとに規則化され、配置され、明示されているけれども、けっして自然らしく見せかけたり、理にかなったものになったりしていない」その『記号』はだからこそ「魅力的な豊饒さや変わりやすさや繊細さたもちつづけている」というバルトの言葉を『東京画』の映像の中の運動から感じ取れるような気がする。


■ 作品の中で小津安二郎監督の墓を訪れるシーンがある。小津監督の墓には名前など書かれておらず、ただ「無」という漢字が一文字書かれている。その「無」をヴェンダースなりに解釈して語るシーンで夜の街を走る電車の画が使われているが、そこがまたたまらなくいい。


■ 『優しく秩序ある映像がいっそう偉大で崇高に思われてくる/それがもはや存在しない/混乱を増す世界に秩序を与える力を持つまなざし/世界を透明にしうるまなざし』が「無」の意識を持つ小津のまなざしだとヴェンダースは語る。そのヴェンダースが東京タワーの展望台でこう語る。

「僕は汚れたこの世界の中で、美しい映像を撮りたい」

美しさとはそれはつまり「ありのまま」の目線で見つめる先にある「運動」ではないか。小津やヴェンダース、そしてバルトが見つめた東京の持つ「運動」の中にその美しさがあるのではないかと僕は思う。だから東京を「ありのまま」に見つめたい。