東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『埋もれ木/幸せな映画体験』

■ 昨日は厚い雲がずーっと空を覆っていて、まるでビニールハウスの中にいるようなジメジメとした一日だったけど、その後に降った雨のおかげで空気が冷えたのか今日はとても過ごしやすい感じだった。ただ明日になると台風が上陸するらしいので、それはそれで不安だけれども。


■ 夜勤明け、またもや渋谷へ。シネマライズで上映している小栗康平監督『埋もれ木』を観る。


■ 最初、僕はこの作品の見方を誤っていた。舞台は小さな田舎町。映画のなかではいろいろな伝統行事が行われる。映画の中で使われている車のナンバープレートを見ると三重とあり、そこが三重県で、行われている行事はその土地に古くから伝わる行事なのかと思った。言葉が悪いかもしれないけれど土着の人を描く映画だと思っていた。


■ ところが全然そうじゃない。というか映画が進んでいっても、どうも土地とのつながりを感じない。具体性を帯びてこない。もちろん切り取られる風景の一つ一つは見事だけど、そののどかな田舎の風景は、『ただの風景』としてだけの印象を与える。山、川、木々、家々。なんといいますか、記号のよう。


■ さらに映画は夢と現実を行き来するような展開を見せる。主人公の少女たちは物語を作ってリレーする遊びにふける。しかも夢と現実に境目がない。一切の説明もなく、そのうえ途切れ途切れに不思議な世界と、現実の話が入り乱れる。で、もう意味や物語を追うのが馬鹿らしい気分になり、ただそこに流れる映像にボーッと身を委ねるようになる。それが心地よくなる。


■ 「この映画は何が言いたかったの?」という疑問は無意味だ。ただ目の前に飛び込んでくる映像を見つめることがこの映画の見方だと思えた。あとは自分が映像から受けたイメージを自分の中で膨らませればいいんだと思う。「何が言いたかったのか」を作り手に決めてもらう行為は必要ない。


■ 僕は東京をあらゆる意味を排して見つめたいと考えていた。それは東京があまりにもいろいろな言葉やイメージにあふれているからだ。そういった視線は都会と呼ばれる土地でしかできないものだと思っていた。


■ しかしこの映画では、それが都会とはかけ離れた小さな田舎の町でその視線で見つめることをやってのけている。長い歴史を持つ町や村の方が、むしろ新しく人が集まって出来た都会よりもその意味やイメージが根深いこともあるのだと思う。土地によっては東京なんかよりも決定されたイメージが根付いている土地もあるだろう。それは歴史や伝統として残る。しかし、この映画ではそういった歴史や伝統からあらゆる出来事が断絶して一個一個存在している。


■ 実際にホームページを見ると「アイテム図鑑」という項目があり、映画に出てきたいろいろなアイテムが紹介されているが、それらは時間や土地、カテゴリーが全然別のものであることが分かる。舞台となった土地の独特の行事かと思った紙灯籠は日本国内ではなくアジアで伝わる伝統行事らしいし、子供地蔵や笹舟なども日本のいろいろな地域であった伝統で特定の場所の特定の文化ではない。トンパ文字も中国雲南省にかつてあった文字で、これまた日本とは関係ない。映画で唐突に出てきた能の回り舞台は群馬県赤城村にあるもので撮影したとのことで、三重とはまったく関係ない。大体、三重県というのも、走っていた車のナンバーから僕が勝手に意識したことで、エンドロールに撮影協力地で三重県鈴鹿市などが上げられているが、作品の中で一度も具体的に地名が触れられたシーンはない。


■ 具体的な伝統行事や土地を舞台にしながらも、それらはそういった歴史や伝統から解放されていて、さらに夢と現実の境もなく続くお話のなかで、より自由に「ありのまま」にそこにあった。それでいてそのもの自体の魅力は失われていない。回り舞台も、紙灯籠も、トンパ文字も、とても美しく、ただ、そこにある。
 

■ 観る側にあらゆることを委ねてくれる映画だ。断片的に存在するそれらから僕は自由にあらゆることを空想できる。その心地よさ。さらに映画のクライマックスである埋もれ木の出現の映像は、僕が思い描いた空想のさらに上を行ってくれる。どこまでも彼方へひろがる。


■なんて心地いい映像体験なのだろうかと思う。映画を観る喜びを感じずにはいられない。