東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『目的地』

■ 昨日の仕事後、京王井の頭線駒場東大前へ行く。アゴラ劇場で上演しているチェルフィッチュの「目的地」を観るため。


■ なんやかんやと前売りを確保できなかったので、当日券で入るべく、仕事が終わってから出来るだけ急いで劇場へ向かったのだけど、劇場に着いたときにはすでに当日券が売り切れている状況で、当日キャンセル待ちの12番の札を手渡されてしまった。キャンセル待ちでさえ11人も先に人が待っているとは。


■ ここでちょっと救われたのは、今回もカタカナの谷川さんと一緒に見に行く約束をしており、お互い仕事が終わったら先に劇場に行って当日券を確保しておきましょうと約束しておいてのだけど、谷川さんのほうが僕よりも先に劇場についていて、キャンセル待ちの8,9番を確保していてくれたことでした。


■ ただ、それでもキャンセル待ちの状況だったので半ば諦めていたのだけど、運が良かったとでもいうのか、なんと最終的にキャンセル待ち10番までの人が入ることができ、僕は谷川さんのおかげでギリギリ観ることができたのでして。ありがたやありがたや。


■ ダラダラと続くモノローグのような会話(中盤にかなりその状況から逸脱した演出があり、そこはちょっと意外だったけど)。日常的に見えるけどどこか非日常的で、よく言われるところのダンスのようだと評されている身体表現。劇作家の宮沢章夫さんがこの芝居を観た感想をご自身の日記に書かれていたのだけど、それによると1970年以降の「ポスト戦後史」の歴史意識を垣間見せる芝居だと書いていた。


■ 妊娠が発覚したことから生じる不安。それは子供が生まれることへの不安であり、これから先の将来に向けての不安であるように思う。子供を身ごもった妻が芝居の後半、飼いたがっていた猫が同じくニュータウンに住む老夫婦に飼われて幸せに暮らすことを夢想する件は、老夫婦の『目的地』がニュータウン終結することに対して、若い夫婦の『目的地』がはるか向こうであることに対する不安の強調であるように思えた。僕には2004年の東横線快速電車のニュータウンへ続く横浜市営地下鉄3号線の乗り入れが実施されたことが、若い夫婦の『目的地』をニュータウンではないもっと先にしている暗喩のように思えた。さらには東横線のたどり着く先、渋谷の人ごみに対する若い夫婦の漠然とした抵抗、ニュータウンの付近で日常のすべてを済ませればいいのではないのかという考え方もまたここから先に向かうことへの不安のように思えるし。前の世代・これからの世代。その分岐点・象徴がニュータウンで、そこを軸としてそこで終わる人とそこから進まなくてはならない人に分けるとして。地続きのはずなのに若い世代の『目的地』は漠としてはっきりとしない。そんな不安が、自信のなさがあのユラユラと揺れる身体表現に表出されるような印象を受けた。


■ 音楽の使い方や照明の使い方がかっこいい。そしてスライドの使い方もまたいい。かっこいい。つくづくかっこいいなぁと思った。


■ それにしても今日は騒がしい。テレビはことさら「普通の人になる」ことを強調しているが、その報道の仕方がもはや普通を超えている。普通の人になるから料理の勉強をしているらしいですよとか、黒田さんの年収がおそらく7〜800万円だから家計簿をつけてやりくりするのかしらとか、そんなどうだっていいことを勝手に話してはめでたいめでたいといい続けていて、そればっかりで本当に気持ちが悪い。祝福が当然だというスタンスでどのメディアも埋め尽くされていて、でもそれはきっとそれを望む数多くの人々によって成り立ってるわけで、これはもう、そうしなくちゃやっていけない日本人の根底にある何かと深くかかわっているんじゃないかとさえ思う。