東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ブログの運動』

■ 伊豆の母親毒殺未遂事件がとても気になる。酒鬼薔薇少年と性的サディズムの点で類似している傾向にあるとかそういったことは僕には詳しく判らないけど、それでも気になるのがその少女がブログを更新し続けていたこと。


■ 母親の衰えていく様子を観察日記のように公開していたという狂気ばかりが取り上げられたりしているけれど、どうもそればかりではない気もする。産経新聞のこの記事に書いてあるように、かつての少年犯罪でネット上に誇示された犯行予告とは異なる印象を今回のブログへの書き込みは受けるからだ。


■ なんというか「発信」に強い意志を感じない。それは例えば少女が自分の性別を男と偽っていたことからも伺える気がする。ただ、ブログには『隠れることは喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である』とも書かれているからもちろんそればっかりでもないのかもしれないけど。


■ こういう文章があるから、週刊誌の記事なんかを読むと少女の異常性を挙げながらも一方で、ブログを用いることで他者に自分を認めて欲しい共感して欲しいと訴えていたのではないかとも書いていたりしている。


■ ブログってなんなんだろうと改めて思う。単なる「発信」の手段としては弱い手段だと思うのは、こういう一般の人のブログを見つけることが他者にはそもそも困難だし、キーワード検索などで見つかるとしてもそれはある程度趣味が一致している人のアンテナに引っかかる程度で、その範囲はどうしたって狭いと思う。いや、でも自分と近い感覚を持っている人とネット上とはいえ空間を共有できるというのは安心することだと思うけど。でも結局は万人に即座に向かうというわけではないわけで、ブログを書くって行為がもたらすものは「発信」や「共感を得るため」の手段以外の別の何かがあるような気がするわけです。


■ 一昨日、そのことで谷川さんとちょっと話したのだけど、ブログは「ままごと」に似ていると谷川さんが言っていたのが印象に残った。さらに僕の友人のDさんは、ブログって創作的な役割が強いもの、それはつまり台本を書いているようなものじゃないかといっていた。


■ 「ままごと」って、模倣から入るとはいえ、それに関わる子供にとっての「真実=リアル」を徹底的に追求する行為だと思う。例えば「今月は赤字よ」なんて台詞を子供が言うことを、その近くにいる大人が「おやおや」なんて笑う場面はしばしばあるような気がするけど(もしかしたらこんな場面もドラマとかしかないのかもしれなけど)、それは大人にとってその台詞が「真実」ではなくテレビドラマや漫画なんかの中で言われる台詞の模倣だからだと知っているからだけだと思う。だけど子供にとってはそれがドラマの中の台詞であれ現実に親がやっているのも見たというものであれ関係ない気がするのは、親のそぶりやテレビなど自分が目にしてきたあらゆるものは全て並列であるはずで、そこから取り出した自分が信じる「真実」を切り取ることこそ重要だからで、それを頭の中から外部に出現させる行為が「ままごと」なんだと思うからだ。それは現実だとかテレビとかで安易に境目がつく「事実」とは異なる、子供にとっての「真実」なんだと思う。あと、思うのは「ままごと」では外部はそれほど意識されないのではないだろうか。「ままごと」で重要なのは、それを演じる主体そのものであって、外部から見られることはそれほど重要ではない気がする。


■ 本人にとっては、「ままごと」という行為や「台本」を書くという『運動』そのものが重要なんじゃないだろうか。その『運動』が形になったものが結果的に外部に「発信」されて、見る人によっては共感してくれることもあるかもしれないけど、それはあくまで後からついてくるもでしかないのではないだろうか。


■ 少なくともブログを書くということは、僕にとってはこうやってパソコンを動かす手の運動が一番の悦びなんだと思う。


■ だから「ままごと」が(たとえ完全な模倣から入るのだとしても)子供にとっての生活というもの中の「真実」の追求という行為なのだとしたら、「ブログ」で薬品を使った行為を書きとめていくことがその少女にとっての「真実」の追求だったのではないのか。


■ ただ、『運動』だけでは説明がつかない部分もある。『運動』だけならば日記だっていいはずだからだ。だけど、おそらく、めちゃくちゃ憶測だけど、少女にとってこの『運動』は日記では駄目だったのだと思う。ブログでなくちゃ駄目だったのだと思う。外部が介入するから?それはまだよくわからないのだけど。


■ 外部を意識するっていうよりは、自分の行為を外部から見つめるためにブログって有効なのじゃないかと思う。自分が書いたものを客観視できる装置というか。日記はあくまで内側で完結される「運動」だからこの外部からのベクトルが存在しない(しにくい)。そんな気がする。だからもう一度改めて書き直すと、彼女自身が行った行為を、改めて客観的な視線のもとで見つめることによって見出される「真実」を見つけるための追求の作業として、ブログを書いているその瞬間の運動が重要だったのではないだろうか。


■ その点で、彼女のブログを書くという行為自体は狂気のものばかりとは僕には思えなく、ただ一点、彼女にとっての「真実」が、世間一般の目から見ると異常に映るもので、犯罪という括りでまとめられてしまう行為だったということが残念といえば残念なことだったのかもしれない。自分の求める真実が、世間からはみ出てしまっていた。それは本当にちょっとしか違いでしかない気がする。僕と彼女は考え方も性格もよくわからないけど全然違うのだろうし、彼女と僕が同じような立場なんてことは憶測でも言えないわけだけど、彼女にとって化学のことを日々書き続けることと、僕が演劇のことを考えながら日々をこうやってブログに書くことには大差はないような気がしてならない。


■ いろいろと考えさせられる事件だ。