東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『変漢ミスコンテスト』

日本漢字能力検定協会が主催している変漢ミスコンテストというのがあるのを知った。


■ どういったことかというとつまり

「500円でおやつ買わないと」→「500円で親使わないと」
「規制中で渋滞だ」→「寄生虫で重体だ」
「大阪の経済波及効果」→「大阪の経済は急降下」

といった具合に、ユニークな変換ミスを集めたコンテストだそうで。この例もそのコンテストのエントリー作品。


■ これって面白い。人間は結構融通が利かないもんだから、自分の中ですでに決まっている概念や事実をまげることがあまりうまくできない。一度学習してしまうと「それはそう決まっているから、そうなるのだ」という固定概念を形成しガチになる、と思う。


■ だけど機械は違う。そういった先入観はないので、それに関わる選択肢を意味とかをその時の状況に応じて取捨選択するとかいった器用なことをせずに、全てを均等に羅列する。(この前は機械に比べて人間の脳はあいまいで魅力的とか言ったけど、ここに関しては、むしろ機械がかなり魅力的)。漢字の変換なんかその最たるもので、僕たち人間が考えもしない選択肢を不意に示してくれる。本来ならばその出鱈目な選択肢は問答無用に排除されるけど、そこでちょっと立ち止まると、僕たちが「当然」と信じていたものが、パキッと音を立てて壊れて、新しい概念が表出してくる。そのモノ単体がまったく別の視点からも見られるものなのだと気づかされる。


■ 大袈裟に言えば、その瞬間とは自分の中で決まりきっていた小さな「社会」の中に「世界」を垣間見る瞬間なのではないだろうか。まぁかなり大袈裟な言い方だけど。このコンテストは結局ひとつの意味から別の意味への変換が主になっているわけで、その意味の間にギャップがあることを楽しむ企画だ。「社会」から「世界」が開かれるときっていうのは、もうちょっと理由さえも説明できない瞬間に触れる悦びだと思う。ただまぁ少なくともそれまでなんの気なしに接していたものの『質感』みたいなものが変わってくることの面白さをこのコンテストから感じることができるのではないか。


■ 例えば子供や動物の行動がとてもいとおしいものに感じられる瞬間がある。誰かのエッッセイに書いてあったのだけど、雪が降ってきた街をエッセイの著者が子供と歩いていたときの話だ。子供の服についた雪が解けて無くなってしまったとき、子供が著者に向かってこう言った。「お洋服が雪を食べちゃった」。それを聞いた著者はいいなぁと感じたらしい。僕もそう思う。


■ 雪は温度で解ける。理論的に攻めればそれが事実なことは明確だ。事実に囚われてしまったら、もう他の見方はできない。そうするといつまでも「社会」の住人のままだ。でも子供は違う。「社会」にこだわることを意識しない。だから自分の感覚で物事を考える。「雪が解けた」は事実だ。しかしその子にとって「雪が洋服に食べられた」はまぎれもない真実なのだ。それは「事実」を超えた「真実」だ。その「真実」に達した時、悦びを伴って「世界」が目の前に広がるのではないか。子供の動作に何かを感じるとき、それは僕たちが意味や存在を決め付けていた「社会=事実」に、突如僕たちが想像もしなかった(「社会」の中で気づかなかったもしくは忘れていた)「世界=真実」を見せてくれるからではないか。


■ 以上、勝手な憶測終わり。なんか、こういうのをきちんと勉強せずにぼんやりとした自分なりの感覚だけで書いてしまうのは、しかし正直恥ずかしい。これだけ日記書いておいていまさらだけど。


■ 19日(月)。夜勤明けに三鷹にある「湯らく」というところへいく。今流行のスーパー銭湯というやつです。別に癒される必要があるほど、何かしているわけではないんだけれど、せっかくなのでちょいと追加料金を払って「岩盤浴」というものに入る。


■ 汗がでるわでるわ。着ていた浴衣は水浸しになったかのようだった。脱水症状にならないように水分を補給しながら入ったけど、口から飲んで即身体から出してるような感じだった。でも、普通のサウナみたいにしんどくないし、なんか、詳しい理屈とか判らないけど、汗がとめどなく流れ出ているのが単純に気持ちよかったし、身体の中から老廃物が汗とともに流れていってる気になって身体がきれいになっていくような気になっていた。銭湯最高。おっさんみたいだがかなり癒された。