東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『世界の夕日』

■ ふと思ったこと。

人間の脳は厳密に全てのことを処理するわけではなく、自分に必要ではない情報はあいまいなままにしておくことができる。例えば景色を見る。目は開いている限り常に風景を見ているわけで、膨大な情報を得ていることになるけれど、実際はその情報の内、自分に必要なもの(もしくは自分が意識したもの)だけしか情報を取り入れない。つまり目で見ていても脳で見ていないわけだ。だからいつも見ている風景でも、ふとこんな景色がここで見れたのかと思うことがある。

おそらく、科学が目指す一つの方向に完璧な人工知能というものがあるのだろう。詳しくは知らないけど、つまり人の手で脳を創り出すということだ。その為に膨大なデータを機械に入れていく。人口脳が何かを見るという行為をするためには、目に映るあらゆる情報を処理して、自分が必要なものを選ぶだけではなく、自分が不必要だと思うものを排除しなくてはいけないはずだ。

つまりあいまいさを持って見るということができないってことだ。いや、多分。詳しくは知らない。多分そうだと思うだけなんだけど。きっと仮に人口知能が人の脳に追いつけるような知能(容量)を持ったとしても、このあいまいさだけは獲得できないのではないだろうか。この曖昧さが、人間の不完全さをもたらすもので、それは欠点とみなされるのかもしれないけれど、しかしこの曖昧さがあるからこそ、人間は人工知能には及びもしない豊かさを持ちえるといえるのではないか。


■ 週末のこと。16日(金)。新宿である方と会う。例によって芝居の役者勧誘。とはいっても久しぶりに会ったのでいろいろなことを話す。この前会ったのは4月だったのだけど、この数ヶ月間でずいぶんいろいろなことがあったらしく、その激動の日々の話はかなり面白かった。とても個人的なことだし、ここに書くのは控えるけど、自分には無い経験を人はしているのだなぁとしみじみ思う。そんなこの方は、この週末、故あって着ぐるみに入るバイトをするらしい。着ぐるみバイトは僕も経験があるがあれは大変だった。子供が殴ってくるんだよな。ちょっと悔しかったから近くにいる親に気づかれないように頭をなでるふりして「地面にめりこめ」と思いながらぎゅうぎゅうおしてやったことを思い出したりした。


■ 芝居に関しては好印象を持っていただけだ。ありがたやありがたや。役者探しも中盤戦を迎えた。ここからがふんばりどころだ。


■ 17日(土)。日中に東京で友人たちといろいろ話す。僕らはどうして芝居や音楽など芸術といわれるものに関わろうとするのか。ちょっとかっこつけて言うとこういうことを話し合った。


■ きっとこの世の中は人為の手による「社会」という枠を含む、人為が及ばないものの手による「世界」から成り立っている。きっと生活するには「社会」だけで十分で、いつもの生活ではあまり「世界」を意識しない。というか、むしろ「社会」で生きることに埋没してしまっている。だけど、不意に「世界」が目の前に現れるときがある。その瞬間は人によって様々だと思う。とにかくそれは「何故?」とかそういう疑問を持つことさえも無意味になるような瞬間だ。言い方を返ると「社会」という枠で人為的に作られた道徳やルールがまったく機能しないような事態に直面する瞬間かもしれない。場合によっては「世界」の不意な出現に戸惑ってしまうことがある。だからきっとこういった「世界」の存在をあらかじめ感じておくために芸術が人為的に作られるのではないか。


■ 音楽やダンスが「世界」と自分が触れ合う行為ならば、芝居は「世界」を認識しようとする行為だ。ずっと昔は「社会」がこれほど成熟しておらず、人はちっちゃいコミュニティの「社会」しか形成しておらず、「世界」と直面することが多かった。人為が及ばない「世界」を自分なりに理解するために人々は演劇を作ったのではないか。そういった空間では音楽もダンスも芝居も必要だった。


■ しかし「社会」が成熟していき、「世界」を意識しなくても生きていくことが可能になってしまった。衝動はルールに束縛されて、偶然の悦びは人為の手による感動に埋め尽くされてしまった。こういった社会でも、しかし「世界」と触れ合おうとする感覚はあるはずで、だからこそ音楽は変容しながらも存在が必要とされている。しかし、「社会」で十分暮らしていける状況でわざわざ「世界」を認識する必要がなくなったために演劇は衰退した。なにせ、「世界」は人智を超える存在なので、時にかなりしんどいことを兼ね備えているから、「世界」を知ることでかなり辛い経験をすることもあるだろう。それを無理して知りたがらないというのも当然。今では柔軟に「社会」に適用した分かり易い「演劇」だけが映画では味わえない生の醍醐味を提供してくれるというフレーズでもてはやされている。つまり「社会」の中で暮らしていくための「安心」を提供する手段となってしまった。それが悪いとは言わないし、そこに面白さもあるわけだけど、でも、やはりそれは演劇の持つ真の役目の全てを全うしていない気もする。おそらく、「世界」を見つめる行為は人間の存在の不完全さを見つめるという「不安」をもたらす行為だ。しかしまたその「不安」の先に、強く生きていくための力を与えるために芸術はあるはずだ。


■ むしろそれが今の「社会」には必要の無い行為であっても、それでも「世界」を見つめる手段として芸術を考えていきたい。高尚なことをしたいとは思わないし、偉そうなことを言う気もないけれど、安易な安心はもういらない。「社会」が見てみぬふりをしている「不安」は確実にある。その不安の前に安易な安心は無意味であるということは現実世界が教えてくれている。成熟し過ぎた「社会」の中に徐々にそういった「世界」レベルの「不安」が侵食してきている。


■ 悦びも悲しみも、意地汚さも、優しさも、全てが等価にある「世界」。そこで生きていける強さを持つために、僕は日々考えて、芝居と関わっているのだと思う。


■ 今日、モノレールに乗っていたら、ビルの間に夕日があった。オレンジ色に染まる世界の中で遠く、遥か遠くの空に、うっすら見えたのは富士山だった。また富士山が見える季節になった。世界はいっつも社会のそばにある。そして不意に僕の前に出現する。社会の中で生きるしかない僕にとって、世界はただ、ただ美しい。