東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『節目の1日』

10月1日。この日も問答無用で暑かった。9月がさほど残暑感が無く、わりと涼しい印象だったので、ここにきて暑さが土俵際で粘りを見せている印象。

とある仕事で少しばかり、お芝居などの作・演出に関わる方とお話をする。その方の作品は1作品しか拝見したことがないのだけど、きちんとした世界観を持ちつつもお芝居でしか成立しないファンタジーが意識されていて興味深かった。舞台の場合、ガチガチにセットを組んだ中での具象的な作品もあれば、セットはあまり組まない抽象的な空間で演じられる舞台もある。どちらも成立するのがお芝居の面白さだと思う。その方はイギリスのお芝居に触れる機会が多かったらしいのだけど、そちらの作品は日本のそれに比べると具象的な作品が多く、日本人は舞台を観るとき、抽象的な作品に触れるときも、柔軟に受け入れてくれるのだという。そういうものなのか、と興味深く話を聞く。人の話を聞くことは面白い。

そういえば嫁と娘はこの日が都民の日らしく学校が休みだったので朝から出かけて行った。どこへ行ったかと思うと、偶然だけど昨日、僕が立ち寄った公園に行っていた。そんな偶然もあるのか。あと都民の日って当たり前だけど、普通に働いている人には関係ないんだなぁとも思った。

それから夕方。別の仕事で高田馬場へ向かう。少し約束の時間まで余裕があったので、久しぶりにおとめ山公園へ行ってみる。久しぶりに来た。亀がいる池があるのだけど、日も暮れてきているからか、亀はあまり見かけなかった。見晴らしのいい広場では、犬の散歩をしている人がたくさん集まって話をしている。のんびりしていていいなぁと思う。すると公園の管理人さんが近づいてきて、「まもなく閉園です」と言ってくる。そもそも閉園というものがあったのかと初めて知る。犬を連れた人たちも足早に公園から移動している。「早くなっちゃいましたね」「ええ、今日から」というやりとりが聞こえる。そうか、1日だった。なるほど季節の変わり目。

それで再び高田馬場へ戻り、仕事を一つ。人を見る仕事。そういう仕事は難しい。そういえば、その時、おひとり中国の方がいて、少し話を聞いたのだけど、日本人は超能力者みたいだと言っていた。なぜかというと相手のことをいろいろ考えて先に行動しようとするから、らしい。そういった行為を日本語で『察する』という。で、その『察する』に的確に該当する言葉が、中国にはないのだという。言葉が行動のすべてを支配するわけではないけれど、言葉が存在するということはその行動が認識されているということだとするならば、中国の方にとって『察する』に該当する言葉がないということは、『察する』ということ自体が概念として存在しないのかもしれない。面白いなぁ。こういうところにも文化的な違いは生じていくのだろうな。だとするならば演劇的な志向も変わるのだろうし。

そういえば、今日は10月1日。今日から消費税が10%になるのだ。すっかり忘れていて、あまり印象になかった。が、やっぱりげんなりですよ、10%。