東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『一方的な気持ち』

肌寒い1日。


嫁氏は最近、酒を作ることに興味を持っており、ペットボトルに麹をいれ、角砂糖を餌に発酵させている。わりと簡易なやり方ながらシュワシュワと発酵している。して、これを呑ませてもらうとどぶろくというのかマッコリというのか、美味しくできている。で、3月末の花見の際に、この醸造1号を持って行った際にかげわたりのベース宮嶋くんにあげるという話をしたそうで、かげわたりのバンド練習の後に受け渡しとあいなった。


東急ハンズ付近のスイートソウルマッシュマンという喫茶店へ。練習終りの宮嶋くんと家常さんがおり、そこで酒を受け渡しつつしばし話。雑多な話から次第にエスカレートしていく。


一方で娘子は、店になぜか置いてあった唇のゴム製の置物で嬉々と遊び、それを宮嶋君に渡していたりした。


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家常さんや宮嶋くんと話をして、最近気になっていたことを以下に少々。以前、ある方がツイッターでつぶやいていた。少し前のつぶやきでチェックもしてなかったので、一語一語正確ではなく僕の覚えている限りなのですが、大筋は以下のようでした。

『僕は原発推進派ですが、太陽光発電を購入しました。どうして原発反対派は自分の身銭を払って太陽光発電にしないんですかね』


この文章に触れて、僕は嫌な気分になったのですが、それはその人が原発推進であることを公言しているからではないです。それぞれに考え方があり、それに深くふれないうちに推進だからと無下にするのは違うと思うし、太陽光発電を購入することは単純に立派な行為だと思います。で、繰り返しですがこれは引用ではなく、僕の記憶を頼りにした言葉なので一語一語正確ではないです。ただ、印象としてこのくらいの攻撃的なニュアンスはありました、が、とはいえこの攻撃性なところに嫌悪したわけでもありません。

違うなと思ったのは、自分の行為をして、他者になにかを強要しようとする姿勢です。

震災後、僕は自分の行為が他者に向けられる時、それはどのようにあるべきかを自分なりに考えました。結論としては、それは一方的な行為であるべきだという考えにまとまりました。カッコつけた言い方をすれば『贈与』とでもいうような。見返りを期待してはいけない、というものでした。期待するというよりは、見返りなど考えずに行動していかねばならぬというような。それはボランティアとか募金とかそういうことに限らず、日頃から他者と接する際にも常に持っていなければならぬことだと思いました。

「良いことしてれば神様は見ている」とか軽く思っている分にはいいのだと思うのですが、それを本気で信じすぎてはいけないと思いました。原発推進だろうが反対だろうが、自分に出来ることを自分がやればよくて、自分はこうしたけど、あなたはどうだ?と強要することは筋が違うと思いました。

で、そんな矢先、これまたツイッターなのですが、ビートたけしさんの言葉をまとめたbotで次の言葉に出会いました。これはチェックしていたのでつぶやきの通りです。本来ならば引用元の文献をきちんと確認すべきなのでしょうがそこまではしてません。

『友情というのは、こっちから向こうへ一方的に与えるもので、向こうから得られる何かではない。友情とは、自分の相手に対する気持ちだ』


これは、僕自身が、他者に対して行為する際の姿勢を的確に捉えた言葉でした。こういう言葉に出会える幸福。互いの理解とか、自分の行為が人を変えるというようなことは、行為の先にある段階で、根本の姿勢としては一方向であるべきだと思います。上の方のつぶやきであるならば、必要と思えば太陽光発電を自分で買えばいいだけで、それ以上は何も他者に強要すべきではないです。まぁ、単純にかっこわるいなぁと思うのです。


で、これも繰り返しですが、だからこそ『トイストーリー3』が良かったのは、おもちゃと人間のそれぞれ意思が伝わらない同士の、相手への一方的な行為が描かれているところだと思います。


この考えは、他者に対してだけでなく、自分自身が何かを発信する際にも自分に戒めたい考えです。何かを作って発信するかぎりにおいて、確かにそれが他者になんらかの作用を与えたいとは思うのですが、それ以前に自分の中にある「形にしたい」という思いがあって、そこに対して真摯に、全力で創作して、その先は、もう委ねるしかない、と。そのようなことを思います。