東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『砂の岬』

■ 今更だけどチンパンジーとブルドックが出ているコカコーラのベンダーのこれのテレビCM、ナレーションは芸人の鉄拳じゃないかなと思ったらやっぱりそうらしい。古くはつぶやきシローからネゴシックスまで、なまりが特徴の芸人さんは多いけど、鉄拳の口調ってなまりとは異なる独特のイントネーションがある。なまりじゃないだけに他の人には決して真似できない点であの声はそうとう魅力的だと思う。動物の声をあてるのにプロの声優さんではなくて鉄拳の声を使っているのはナイスチョイスだと勝手に思う。


■ 夜勤が終わってから駅に向かう途中でリクルートスーツ姿の女性をたくさん見かけた。今くらいの時期はこういう服装の女性をよく目にする。で、春が終わるとほとんど見なくなる。男にとっての背広はいろんなところで着れるけど、女性のリクルートスーツって就職活動くらいでしか着ないのではなかろうか。よく判らないけどそれだけのために用意するのも大変だよなぁと思う。で、突然今日で4月も終わりだと気付いてすこし驚いた。3月の芝居が終わってからここまでの一ヵ月半がなんだかあっという間に過ぎてしまっているような気がする。


■ まぁそれはそれとして。久しぶりにCDを購入した。ミルトン・ナシメントの『MUSIC FOR SUNDAY LOVERS』。このアルバムに収録されている『Ponta De Areia』が聴きたかったから。この曲は『砂の岬』という邦題がつけられていて、かつてTHE BOOMがカバーしている。それを聴いていつかオリジナルを聴いてみたいと思っていた。


■ とても良かった。ミルトン・ナシメントの声がすごくいい。なんだろう、叫んでいるわけでもないんだろうし、感情を精一杯込めて歌っているって感じもしない。力がいい具合に抜けているような、ただそこに声があって、それだけで何かグワーッて湧き上がってくるものがある。


■ 『砂の岬』の歌詞もすごく好き。かつてゴールドラッシュの時に使われていた港と内陸の町を結ぶ鉄道について書かれている。今はもう走っていないその鉄道のことをたんたんと書いている。


■ たまたま最近、南木佳士さんの『ダイヤモンドダスト』(文春文庫)を読んでいたのだけど、南木佳士さんの文章から受ける印象と『砂の岬』を聴いて受ける印象は似ている。『ダイヤモンドダスト』にも今はもう廃線になってしまった鉄道の運転士が登場していて、そういう偶然の一致もあるのだけど、似ているのはなにもそういうところだけではない。南木佳士さんの作品は『ダイヤモンドダスト』に限らずほとんどの作品において題材として『死』が取り扱われている。主人公となるのは医者や看護士など医療に携わる者で、その人たちが患者の死と向きあう話が多い。それは南木佳士さんの肩書きが小説家でありながら現役の内科医であることに拠る。


『心臓や呼吸の停止は、ほとんどの場合、本質的な意味を持たない。死に価値があるとするならば、それを決めるのは、残された者の内に生まれる喪失感の深さの度合いだけではないか、と僕は思っている。』


これは『冬への順応』という短編の一節。南木さんの書く作品では、死にゆく者はあくまで客体であり、死を見つめる者こそが主体となる。そういう構造ゆえに南木さんの視線は死から一定の距離を保っている。南木さんの作品におけるこの死との距離感と『砂の岬』の過去の出来事との距離感が似ている。近づきすぎないその距離感が僕にはとてもいい。


■ ところで死と過去は似ている。脳科学者である茂木健一郎さんが『考える人』という季刊誌の2006年冬号に以下のようなことを書いている。


『私はまだ生きてはいるが、私の過去は、すでに死者たちと同じ場所にある。(中略)その過去の時間は、もはや不動の姿で、修正も利かず、祭壇にまつられた死者たちと同じ場所にいる。』

 
  僕はこの考えにはっとさせられた。思い出さなければ僕の前に出現しないという点で過去と死は確かに一緒だと思う。『不動の姿で、修正も利か』ないというのは僕の考えとはちょっと違うけど。僕は身勝手なのでその時の自分の都合のいいように死者も過去もその都度改ざんして新たに再構築している。まぁそれはともかくとして。多分、世の中には『今』しかないんだと思う。そして『今』には厳密にいうと死者と過去は存在しないんだと思う。だけど、かつて触れ合って交わした会話や出来事が、そういった記憶が、時には都合のいい自分勝手な改ざんも、僕の血となり骨となって『今』を作っている。だから過去や死者について書かれたこういう作品に触れると僕を形成している身体のどっかと共鳴する。そしてまた過去や死者が再構築されて僕の眼の前に現れて、僕の血となり骨となり『今』を作る。死者と過去は『今』とは別の世界にあるのかもしれないけど、決して手の届かない場所にあるわけではない。むしろこちらが望めばいつでも向きあえる。


■ 『砂の岬』日本語訳 引用

  砂の岬 そこは終点
  バイーアとミナスを結ぶ 自然の道
  ミナスを港へ 海へと結ぶ道
  だが あの鉄道は撤去されてしまった
  年老いた機関士は 帽子に手をやり
  歓声を上げて汽車を迎えてくれた 
  人々を 思い出す
汽笛はもう 歌わない
  美しい娘に花を贈った日々も遠い
  空っぽの広場にこだまする嘆き
  忘れられた家々 戸口に
  ひっそりと佇む 未亡人たち

 (対訳 国安真奈)