東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『不条理に関して/祭りがやってくる』

■ 『牛乳の作法』(筑摩書房)を改めて読み直したときに、不条理について書かれた部分に目が止まった。以下、長くなるけど引用。

『さて、「不条理」は、フランス語の、absurditeを翻訳した言葉だ。どこかの誰かが、そのフランス語に、「不条理」という言葉をあててしまったのである。
(中略)
この、「absurdite」は、本来、「非理論的な」「分別を欠いた」「ばかげた」という意味を持つ一般的な言葉だと資料にある。カミュが『異邦人』において異なる意味をこれに持たせた。
(中略)
さらに、カミュはそれをこうした意味だととらえていると資料にある。
『世界の属性でも、人間の属性でもなく、人間に与えられた条件の根元的なあいまいさに由来する世界と人間との関係そのものであり、理解を拒絶するものと明晰な理解への願望との果てしない対決である』』

先日テレビで放送されていた青山真治監督の『レイクサイド・マーダーケース』を改めて見直すと、そこに映っているのは子供のやろうとすること、考えることをまったく理解できないでいる大人たちが、子供たちを理解しようともがき、必死になって『家族』を形成しようとするがあまり、理解しきれない部分を諦めようとする姿であって、それはそのまま『理解を拒絶するものと明晰な理解への願望との果てしない対決』だったと見ることが出来るのだと思う。


そしてこのことを踏まえると以前、チェルフィッチュの岡田さんがご自身のブログに不条理とは『複雑さを孕んだ普通/フツー』と書かれていたことが少し理解できた気がするのは、それはつまり劇中における登場人物が『理解を拒絶するものと明晰な理解への願望との果てしない対決』をした結果、そうすることでしか生きられなかったという姿が舞台上には提示されるのであって、『レイクサイド〜』において役所広司他、登場する大人たちが下した結論がひどくとんでもないようなものであったとしてもそれはそうすることでしか生きられなかった人たちの姿であって、それは『複雑さを孕んだ普通/フツー』として彼らの日常の中に取り込まれてしまうものなんだと思ったからである。


『レイクサイド〜』が単なるミステリーではないのは、謎の解明よりも事件の当事者ではないそういう大人たちの『理解を拒絶するものと明晰な理解への願望との果てしない対決』に軸があるところで、観客である僕は彼らの行動を目の当たりにすることで、不条理な生を体験することが出来るのだと思う。


■ それにしても、以前も『牛乳の作法』は何度も読んでいたのに、こうやって改めて読み返すことでまた気付くことがある。じゃあ、以前読んだときに見過ごしていたのかというとそうではなくて、もちろんその文章は読んでいたと思うけど、たぶんその時のアンテナには引っかからなかったんだと思う。今回、自分に異なる意識があり、そのアンテナに引っかかり、この文章を『発見』したんだと思う。読むことの悦びだ。


■ 4日(日)。夜勤明けに東向島へ。白髭神社の付近でやっている祭りを見に行く。それは白髭神社大祭と呼ばれるもので、境内には屋台も出て、神輿なども道路を練り歩き、盛り上がっていたけど、人から教えてもらった話では来週はもっとでかい神輿も出てさらに盛り上がるのだという(参照)
三社祭とかそういう規模がでかい祭りというわけではないのだろうけど、地元の人たちが一同に介して神輿を担ぐ姿に、その土地に根付いている結束のようなものが伺えた。子供神輿も出ていたのだけど、神輿を担ぎ終わった子供たちが大人の人たちからお菓子をもらってうれしそうにしていた。思い出した。祭りのときってお菓子がたくさんもらえるのだ。神輿を担ぐことの意味なんて全然考えず、お菓子をもらうためだけに僕も神輿を担いでいた。さらに屋台の綿菓子、たこ焼き、アイス、金魚すくいにカタヌキ。いつもとは違う非日常の世界が祭りにはあって、かつて子供だった僕はその場所にいることが楽しくて仕方が無かった。それは年を重ねた今も変わらない。祭りの雰囲気はやはりわくわくする。