東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ノラや』

■ あることで少し落ち込む。自分には絶対に判ることができない痛みというものがある。せめてその痛みを和らげるように何かしたいと思うものの、自分にできることはそう多くない。


内田百輭の『ノラや』(中公文庫)を早稲田通りの古本屋でみつけた。内田百輭の家に現れた猫(ノラ)について書かれた本で、文章にはノラと一緒にいる百輭の喜びのようなものが溢れていて、読んでいるこっちも楽しくなる。でも、それも最初の30ページくらいまで。その後のページは、突然家を出たきり帰らなくなってしまったノラ探しに奔走するも見つからず、ノラのいない寂しい日々を過ごす百輭の生活が日記や随筆で描かれている。


■ 特に日記を読むのは辛い。2,3行の短い文章でほぼ毎日記録されている日記が1年分ほど掲載されているが、百輭はいつも泣いている。例えばノラがいなくなって200日目の日記はこう書かれている。

『十月十三日日曜日 ノラ200日
 曇 晴 午後快晴 二十四度半
 夜ぢつと坐つてゐて思ふ。ノラがうちへ帰つて来られなくなつてゐる。もう帰れないのではないかと思つていたら、可哀想で涙が流れて止まらなくなつた。』

やりばのない辛さが滲み出てくるようで、読んでいて本当に辛くなる。百輭はこの時70歳だったという。70のじいさんが猫のことで泣いている。そして泣いていることを公然と文章に書いて発表している。どうかしているような愛情だけど、それほど百輭にとってノラは大事な存在だったのだと伺える。


■ 以前、日記に書いた『けだま』という猫が僕にとってはノラのような存在だ。けだまは僕が『お前はけだまか』と聞いても大体うるさそうにして無視する。だけど耳の裏の辺りを掻いてやると気持ち良さそうに目を細める。あと喉のあたりを掻いてやっても気持ち良さそうにする。けだまは窓のそばにいるのが好きでそこからいつも外をみている。僕にはけだまが何を見ているのかはよく判らない。それまで猫は頻繁に「にやあ」と鳴くものだと思っていたのだけど意外と鳴かない。以前、何かで読んだのだけど動物が鳴く場合、大半は何か不満、要望があるときなのだそうで、楽しいときやくつろいでいるときは鳴かないのだそうな。だからけだまが「にやあ」と鳴かないのもそれはそれでよしとすることにした。


■ 結局、ノラは帰ってこない。その後、別の猫が百輭の家に住み着くようになる。百輭はその猫にクルツという名をつける。しかしこのクルツもやがて病気で死んでしまう。2匹の猫が去ってしまい、途方にくれる百輭に猫をあげようと提案してくるものが現れるが、百輭はそれらの申し出を断る。

 『皆さんの御親切は難有いが、私は先年の春、三月二十七日の午後のうららかな庭の木賊の茂みを抜けて、どこかへ行つたきり帰つて来ないノラと、今度のクルと、この二匹の猫が大切なのであつて、その外の優秀な猫、珍しい猫、或は高価な猫などに何の興味もない。ノラもクルもどこにでも、いくらでもゐる駄猫で、それが私には何物にも換へられないのである。』

  なんとも響いてくる文章だ。『ノラや』はノラとクルツに対する百輭のひたむきな愛情が溢れた作品だ。