東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『慈悲の写実』

■ ここ数日のこと、まとめ書き。


■ 4日(火)。仕事後、地元の駅前にある喫茶店でノートを出して台本を書いてみる。今回は漠然とパソコンは使わないで手で書いてみようと思っている。特に根拠はないのだけど、一つ挙げるとしたら、パソコンを打つ手の速度に委ねて台詞を書いていくのではなく、もっと一文字一文字意識的に書いてみようと思ったから。単純にいうとそういう『気分』だ、ということか。問題はその喫茶店の空調だった。やたらと冷房が効いている。暑がりだけど冷房が効きすぎている空間は苦手。2時間ほどで退散。とにかく少しずつでも台本を書き進めてみる。


■ 5日(水)。仕事後、飲む約束があり、JR品川駅の指定された待ち合わせ場所で友人たちを待つ。仕事帰りのラッシュの時間だったのでえらくたくさんの人が駅の中を行きかう。その人波をぼんやりと眺めていたら、改札の方から見覚えのある人が歩いてきた。それはかつて芝居の時には何かとお世話になっていた阿佐ヶ谷在住(今は阿佐ヶ谷には住んでないけど)のFさんだった。なんでも仕事の用で品川に来たらしい。まさか品川で会うとは。Fさんが「何か視線を感じたよ」と言っていたけど、あれだけの人が行きかう中からたまたま出会うのだから偶然というのもあるものなのだと思う。


■ Fさんとわかれてから友人たちと合流。なんといいますか、今回の飲み会は見知った友人ばかりの飲み会とは違うタイプのもので、そういう飲み会は初めてだった。大学時代の同期H君と、H君の職場の同僚の人たちも一緒に飲んだのだけど、その同僚の決して酒に強くないK君が場の勢いで酒を結構飲んでいた。今日になってからH君にメールをしたら、K君は朝になってからもしばらくトイレに篭っていたとのこと。でも場を盛り上げてくれたK君たちがいてくれたので僕はとても楽しい時間を過ごしました。


■ 6日(木)。日中に三鷹へ。三鷹美術ギャラリーで開催されている『高島野十郎展』に行く。高島野十郎の描く作品を観ながら『見る』ということについて考える。高島野十郎の絵画は静物画であれ風景画であれ克明な写実画が多いのだけど、そこには「実物そっくり」以上のものが描かれているように感じる。高島野十郎の見つめ方を語るとき出てくるキーワードが「慈悲」なのだという。購入した目録に掲載されている西本匡伸氏のコラムに高島野十郎の言葉があるのでそれを引用


『近年発見された彼のノートには、創作した詩歌とともに、自己の芸術観についての寸言がいくつか記されている。なかには内容の読み取れない謎めいた言葉も含まれているが、そのなかに「写実の極地、やるせない人間のいきづき それを慈悲といふ」とある。そして「全宇宙を一握する、是れ写実/全宇宙を一口に飲む、是写実」「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」といったアフォリズムがならぶ。風景であれ、一個の物であれ、あらゆる対象に差別なく可能な限り、眼と筆を届かせることが写実であり、それは彼にとって「慈悲」に関わる営みであった。』


 そういうものの見方にとても惹かれる。そういった見方で切り取った世界を立体化するために高島野十郎さんがとった方法が克明な写実であった。ならばじっと見つめた世界を、もしくは回転を立体化するためにはどういう風な方法をとるべきか。誰もが新しい方法を絵画に取り入れようとしていた時代に、とことん写実にこだわった画を描いていた高島野十郎さんの生き様。それを見習うってわけではないけど、奇抜な発想やうわべだけの小細工はいらないはず。高島野十郎さんの描く蝋燭や月はただそれが描かれてあるだけで美しい。