東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『また来てください』

tokyomoon2008-03-04

■ 今年の2月は29日があり、そこで一つの節目を僕の中で迎えた。日にちに関しては特に意味はないのだけど、ひとまず一つの節目。


■ 3月の2日(日)から佐賀に行っていた。佐賀に暮らすおばあちゃんの体調が年明けから悪くなり、ここ一月がやまだという話を母から聞いたのは確か2月のあたま。それで、というのはおかしな話なのかもしれないのだけど、どうしても佐賀に行かなくてはと思っていた。


  具体的に書いてもあれなのだけど、僕の父は、かつて『古賀』という苗字だった。父の母方の実家の家系に跡取りが出来ず、そこで養子に出され『松瀬』になった。ウル覚えなのだけど、それは父が高校の頃の話だったと思う。なので、ここで言うおばあちゃんと父には血のつながりがない。当然、僕も血のつながりはないが、そんなことはどうでもいい。僕にとっておばあちゃんはおばあちゃんなのだ。


子供の頃、夏休みごとに九州の実家に帰っていたのだけど、そのときは古賀の家と、おばあちゃんの家に必ず行った。父の実家が2箇所あるわけだが、それが当たり前だと僕は思っていた。おばあちゃんは一人で暮らしていた。おばあちゃんの家は広かった。テレビのある和室以外の部屋は、夜になると暗くて怖かった。トイレが家の端の方にあり、夜に行くのが怖かった。兄と2人でトイレに行き、扉を開けたまま用を足した。トイレの隣にある大きな部屋に、軍服を着た青年の写真が飾ってあった。その写真もまた、子供の僕には怖いものだった。その写真は、この家の主、つまり父の義父の弟の写真だった。その弟は戦争で亡くなったのだという。詳しくは聞いていない。父の義父、つまり僕にとってはおじいちゃんにあたる人も、僕が生まれて間もなく亡くなっている。僕も葬儀には出たらしいのだが、当然覚えてはいない。


おばあちゃんはおじいちゃんが亡くなってから、およそ30年間、ずっと一人でその家に暮らしていた。


辛くなると思うぞ、とおばあちゃんの入院する病院の前で、車を降りた父から言われた。父は、僕が佐賀に来る2日前、つまり2月の29日に先に佐賀に来ていた。その日は金曜日で平日だが、この日がやまになるかもしれないと病院の先生に言われており、父は会社を休み、佐賀に行った。3月2日に佐賀に来た僕を、父と、古賀の実家に暮らす父の実兄が迎えに来てくれた。病院内はやけに静かだった。日曜だったこともあるのだろう。父について2階に上がり、入院患者の方が入っている部屋に向かう。入り口のネームプレートにおばあちゃんの名前を見つける。だけどその部屋にはいなかった。受付で確認すると、おばあちゃんは前の夜に突然家に帰ると騒ぎ出したらしく、急遽部屋を移動したのだという。なぜ、そう言い出したのか理由は判らない。


それで案内された部屋に行く。その部屋にはベッドが二つあった。手前には年配の男性が眠っており、そのベッドの横におそらく夫婦なのだろう女性の方が座っていた。その奥の、カーテンで仕切られた向こう側におばあちゃんはいた。細くなった手に点滴用の針が刺さっており、鼻にも管がついていた。いつもきちんと結ってあった髪は、ほどかれてあり、普段では見ることがなかった髪を下ろした状態のまま、口を少しあけた状態で、おばあちゃんは眠っていた。父が声をかけるとおばあちゃんは目覚め、「研祐が来たから」と伝えると、僕の方を見て、おばあちゃんは「ねとった」と言った。それから少しだけ話をした。それまでの容態を知っていた父や実兄の話では、おばあちゃんは少し元気になっていたという。そうだとしても、やはり僕の眼にはおばあちゃんの姿は別人のようだった。


一月ほど前におばあちゃんは意識不明のような状態で、病院に運ばれたという。検査の結果、癌が見つかり、その時点ですでに手の施しようがなかったらしい。病院に行った後、おばあちゃんの家の近くに住む松瀬の分家を訪ねた。父と親しく話すその家の主の方と、僕はおじいちゃんの葬儀の時に会っているらしい。当然、覚えていない。雑談の中で、父がその人に言った。「義母にね、先祖を大切にしてくれと言われてしまいましたよ」。父は少し笑いながら、だけど、その言葉の重みをきちんと自覚しているように思えた。


父はそのまま東京へ戻った。僕は古賀の家に向かった。古賀の家を訪れるのは、3年前に古賀のおじいちゃんの葬式に来て以来となる。実兄、つまり僕からすると伯父にあたるその人がおばあちゃんの印象を独特の静かな口調で語った。おばあちゃんは我慢強い人だった。怪我をしたときも、多少のことは我慢してしまう人だったという。それは、一人で暮らす身として、頼る人がいなかったという理由もあったのだろう。とにかくおばあちゃんは我慢強い人だった。おじいちゃんが亡くなってからの30年間、おばあちゃんは一人で家を守り続けていた。それはつまり、松瀬という名前を守り続ける、おばあちゃんの静かなたたかいでもあったのだと思う。おばあちゃんが父に言った「先祖を大切にしてくれ」という言葉は重い。その重さを父も自覚している。例えば、血がつながっていないとはいえ、息子にあたるうちの父を頼りに東京に出てくるという方法もあったはずだが、おばあちゃんはそれをしなかった。その我慢強さが、今回に関しては災いになってしまったのだろうと伯父は言った。手の施しようがなくなるほど、癌の進行が進んでいても、おばあちゃんは自分から病院には行かなかった。


夜になって、少しだけ、外に出てみた。以前、佐賀の夜を歩いて、その夜の深さに触れ、初めて夜は怖いものだと実感した。家の外に出る。空気が冷たい。有明海に面した場所にある古賀の家からは汐の匂いがする。どこかで虫の声が聞こえるが、それもわずかなもので、どこか重たい沈黙がそこにはある。空には雲があり、星は見えない。街灯だけが本当に唯一の明かりで、確かに遠くの方に民家の明かりは見えるけれども、一帯には深い闇が広がっている。夜は怖い。やはり夜は怖いものだった。古賀の人たちは、この夜と共に暮らしている。そしておばあちゃんも。おばあちゃんは、この夜と、一人で30年、生きてきた。


翌日、古賀の家を出てから、また病院へ向かった。この日、見舞いに行ったら僕は東京に戻ることになっている。東京で暮らす僕が、この次に佐賀に来るときがどういう時なのか、少なくともそれは自覚している。それは父も同様。


昨日も昇った階段をあがり2階の病室へ向かう。おばあちゃんは、元の部屋に戻っていた。膝を曲げて、立てひざの状態で目をつむって眠っていた。「おばあちゃん」と声をかけるとおばあちゃんは目をあけてぽつりと「ねとった」と言った。それから少し話しをした。おばあちゃんの言葉は小声で聞き取りにくい上に、九州の方言がたくさん入っていて、僕には判らないことがおおい。「今日はぬくかね」とおばあちゃんが言った言葉を僕はすぐに理解できず、「え」と聞き返した。すると後ろにいた伯父が「さむかよ、少し雨も降ったけん」と答えた。それで気温のことを話しているとやっと僕は理解した。「そうね」とだけおばあちゃんは答えて、窓の外を眺めた。僕が九州にやってきた日から九州の天気は下り坂で、気温は低く、大陸からは黄砂が吹いてきていた。骨と皮だけになってしまったおばあちゃんの手を握る。おばあちゃんの左手の薬指には金色に輝く指輪がしてある。おばあちゃんは強い人だ。本当にそう思った。気を利かせてくれたのだろう、伯父が「研祐はもう今日、帰るから」とおばあちゃんに言った。おばあちゃんは、そうね、と言ってから、僕の方に向き直って、こう言った。「また来てください」。その一言で、どうしよもなくなって、一気に溢れてきそうになったものを、どうにか抑えた。どうしても、言葉が見つからず、いろいろ考えた結果、口をついてでてきたのは、「また来るから」だった。


今、こうして東京に戻ってきて、それでまた、いままで通りの生活が始まっている。おばあちゃんのこと、父のこと、伯父や古賀の家、夜のこと、いろいろなことが頭をよぎっていく。こういった私的なことを公にすることがいいのかどうかはよく判らないのだけど、自分の中を整理するためにも、書いておこうと思います。ここ数日の、僕の記録。