東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『札幌/クリプトグラフ』

1日(木)から3日(土)までの3日間。仕事で札幌に行っていた。札幌に行ったのは大学時代から数えても3回くらいではなかろうか。せっかくの北海道なので本音を言えば帯広に行きたかったけど、仕事の延長なので仕方が無い。

新宿や渋谷と違う、札幌の様な碁盤の目の繁華街を歩くと旅に来たなという気分になる。かつて父が単身赴任をしていた名古屋も、先日行った広島も、京都も、大阪も、僕が知っている繁華街というと大体碁盤の目になっている。京都出身の友人が以前、東京の複雑な地形はなんだか落ち着かず、唯一銀座を歩くと落ち着く、というようなことを言っていた。

これは教えてもらったことなのだけど、僕が大学時代に暮らしていた帯広は住所の読み方が『西○条南○条』と東西が頭に来たのだけど、札幌は『南○条西○条』と南北が頭に来る。このような違いは単なる偶然なのかもしれないけれど、こういった些細なことに、もしかしたら土地との関わり方の違いというものが見えてくるのかもしれない。たとえば、昨年閉店してしまったというロビンソン百貨店の存在とは札幌に暮らす人にとってどういう存在だったのか。聞くと待ち合わせといえばロビンソンだったようなところもあるそうで、今は別の呼称で建物自体は営業しているらしいけれど、旧ロビンソンの呼び名で言われることもあるそうな。単なる百貨店の閉店とは別の側面がそこにある気もする。日本国内のロビンソンの第一号店がすすきののそれだと初めて知った。偶然ながら、現在国内で2店舗しかないロビンソン百貨店のうちの1つである埼玉の春日部のロビンソン。そこは実家から近いこともあり子供の頃に頻繁に行っていた。ロビンソンに行くというのは、個人的な経験として貴重なもので、近所のスーパーに行くのとはわけが違う特別なものであった気もする。時間にして、わずか数十時間なので何も判るはずが無いけれど、碁盤の目に沿って歩いてみるとそれだけで面白かったりする。

久しぶりの飛行機。空から眺める北海道は、畑や緑の風景が整然とあり、なんというか『ザ・北海道』としかいいようのない風景。一応、蟹などをお土産として購入。みぞれがそれに興味津々近づいては匂いを嗅いだりしていた。


4日(日)。起きてからひとまず洗濯。午後から駒場東大前へ。ひとまず駅を降りてから東大をぶらつく。札幌に行った時に北海道大学もぶらついたのだけど、私は大学構内を歩くのが好きでございます。秋ということもあり、構内の銀杏が香しい匂いをまきちらしていた。ご年配の男性が銀杏を拾っていた。種ごとフライパンで炒めるとアレが実に美味しい。あんなに香ばしい匂いをしているのに。

構内のベンチで色川武大さんの『狂人日記』を読む。読み始めてすぐに虫に腕をかまれることに耐えきれなくなりその場を退散。

それからアゴラ劇場へ。マレビトの会の『クリプトグラフ』を観劇。混沌とした舞台。舞台上にある身体は紛れも無く台詞を発するための存在としているが、決して語られる言葉を丁寧に観客に投げかけようとはしない。意味ではなく、ある種のノイズのようにしていくつもの言葉や音が舞台上を飛び交う。改めて戯曲を読めば、作家松田正隆さんのある種の美しさを持つ文章がそこにはあり、それを丁寧に語る演出方法だってあったと想像出来るけど、それを「あえて」行なわなかったと仮定するならば、ではなぜあのような混沌とした舞台を今、作ったのか。
物語によって成り立つ舞台も世の中にはある。そうかと思えば先日の『世田谷カフカ』のような作品もある。『世田谷カフカ』を観たとき、それを面白いと思えたのはある種の安心感を持って作品を観れたからだと思う。どう見せるかを徹底的に模索した上で演じられたそれは一つの作品としてバランスがきちんととれていたように思う。『クリプトグラフ』はそのバランスというものを考えない過剰さがあった。
あと、『声紋都市』にしても『PARK CITY』にしても、僕が観たのはとても広い劇場だった。アゴラ劇場は素敵な劇場だけど、広さとしてはそれほどでもない。『クリプトグラフ』はいくつもの劇場で繰り返し行なわれてきた作品だと思われるけど、基本的な想定としてどれほどの大きさの舞台を基に作られた作品なのだろうかと思う。当然、再演の際に劇場の広さを考慮して演出がなされているとは思うのだけど、アゴラ劇場という舞台の大きさが、一層混沌を増長していたような気がする。

行き

観光

NIKE少年

残り炭入れ

帰り

おびえ猫