東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『世田谷カフカ』

tokyomoon2009-09-30

雨の水曜日。下北沢の本多劇場でナイロン100℃の『世田谷カフカ』の芝居の当日券を買うため、入口前の階段に並ぶ。頻繁に芝居を観に来ていた頃は、よくこの階段前に並んだ。当日券を販売するのは、だいたい開演の1時間前で、開場と重なるその時間は、制作スタッフの方にとっては忙しい時間だろうけど、最後のリハを終えた舞台スタッフの方や役者の方にとっては本番前の休息の時間になるらしく、階段を降りて外へ出て行く人をよく見かけた。マチネの公演の当日券を取ろうと並んだある芝居の時は、僕らが並んでいる横を役者の人たちが劇場入りするなんて光景もあった。あれはあれで不思議な光景。

まぁ、雨の平日の公演ということもあるのか、無事にチケットを購入し、開演までの間、久しぶりに下北沢をぶらつく。いろいろと店が変わっている印象。やけにお好み焼き屋が増えた様な気がするけれど、どうなのか。

久しぶりにナイロン100℃の芝居を観劇。というのも、演出のケラさんのブログなどから今回の芝居はかなり実験的な試みをしようというものらしく、それに興味があったもので。
事前にケラさんが言及されてた通り、一本の軸になるような物語はなかったけれど、勝手に想像していたよりも一つの作品としての統一感のようなものはあったように思う。いくつかの話が断片的に演じられたり、時に他の話とリンクしたりして、最近の作品を観てないのでアレだけど、以前のでたらめなころのナイロンの作品のような印象を受ける。とはいえ当然、その当時の作品とはまた異なる手触り。カフカの小説を読んだ時の、なにやらモヤっとするような質感を、舞台上にあげようと試みているような作品作り。一頃のナンセンスとも違うし、毒っけのようなものを強調するわけでもなく、笑いとは異なりつつもそこには『面白さ』がある気がする。2時間45分もあったけど時間の長さは全然感じない。

実験度でいうとマレビトの会のような衝撃は受けなかったけど、それはベクトルの違いというか。マレビトの会のそれはもはや演劇というよりパフォーマンスのような印象を受けるけれど、『世田谷カフカ』は演劇よりであったような気がする。舞台装置の使い方も、転換をいかに巧みに行なうかを計算された感じ。あと、こういう作品を観たからなのかもしれないけど、良くも悪くも本多劇場というのは演劇のための劇場であり、舞台なんだと思う。今回の『世田谷カフカ』では、結構頻繁に客席の通り道での演技や出はけがあったのだけど、それを観てそう思った。
劇場なんて、舞台の上下にきちんと出はけ口があれば大体のものは成立するのだろうけど、そういった枠を壊して客席から役者が登場することは多々在る。そういった演出はいろんな舞台で観た。劇場の特性(舞台/客性)を利用した演出だろうけど、実のところ、劇場という制限された枠だからこそ成り立つ裏技で、とはいえ裏技と言うにはもう至る所で使われている手段になっている気もする。
今回の様な、あえて実験的な試みをしようとした時、なんかかえってそれが鼻についたというか。ならばいっそもっと壊すとか、もう劇場じゃない所でやればいいとかってことにもなるのかもしんないけど、うーん、それもそれでそこまでやらなきゃならんてのはしんどい気もするし。何を考えていたのか判らなくなってきたのだけど。今回、その点に関して感じた違和感。劇場という場所で演劇をやること。劇場とは異なる場所で演劇をやること。実験。パフォーマンス。舞台をどういうところでやるかということそれ自体も、また、一つのパフォーマンスであるはず。マレビトの会の『PARK CITY』は、山口の劇場の特性を活かして、3F席だけを客席にし、1階部分の舞台を見下ろす様なステージを試みていた。これ、もう、それ自体が一つのパフォーマンス。観ていて気持ち良いくらい。でも、それを全ての劇団に要求するのはいくらなんでも厳しい。客席を確保しなければ動員にも響くし、商業ベースであれば、作品を作る前に劇場を取らなければならないし。いかん、いつの間にか話が変な方向に。

いずれにしても、面白かったのです。久しぶりにナイロンを観て堪能しました。