東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『曖昧でスリリングな時間/池袋の父と母』

24日(土)。以前、僕の芝居に出演してもらったりしたカベさんが参加している東京デスロックの『ROMEO&JULIET』を観に埼玉は富士見市キラリ☆ふじみへ行く。
チケットを購入し、劇場へ入ろうとするとそこにかげわたりの家常さんが。「いやー、いると思ったよ」と不思議な言葉をかけられる。席に座ろうとすると今度は女性から声をかけられる。よくよく話を聞いているとカベさんの奥様。何度もお会いしていたのにすぐに判らなかった。失礼な話である。「いや、その、会うたびに雰囲気が違ってまして」とよく判らないフォローともいえない何かを私は発し、余計に失礼な次第。さらにさらに、4、5年前に一緒に芝居をやったYさんが客席にいて互いにびっくり。芝居を観に行くと誰かしらに会う。

それはさておき。

ずいぶん前に東京デスロックの芝居を一度観たことはあるのだけど、それとはずいぶんと異なる印象。表現することへの強い意識を感じる舞台。3部構成のようになっており、1部が『ロミオとジュリエット』の戯曲を映像と音楽によって紹介する様な流れで、2部が出演者による恋愛の実体験の独白、そこからジュリエットの独白へとつながり、目隠しをした役者がジュリエットとロミオを入れ替わり演じていく3部へとつながる。3部の中盤、舞台上にいた役者が次々と袖にはけていき、ジュリエットの台詞を語り終えた最後の役者が舞台からはける時、目隠しをした状態のその俳優が、それまでの演者とは別の方向に歩き、壁沿いに立ててあった照明にぶつかった。それを観ていたとき、僕は頭半分、その演者が歩く方向を間違えたのかと思った。もう半分はそれも演出のうちかと思ったけど、非常に曖昧な状態だった。とはいえ手を出せるわけではない。舞台上のセットから劇場の端までをその演者が歩いた、時間にしたら1分もないその時間が、なにやら非常に曖昧でいて、スリリングな時間だった。その後、演者はすぐ脇にあった扉からはけ、それが元々決まっていた演出だと判ったのだけど、それは結果的に判ったことであって、その時に感じたあのなんともいえない時間はとても刺激的だった。
終演後、カベさんから話を聞くと目隠しの状態でもきちんと立ち位置が把握出来る様に練習をしていたのだとか。
目隠しという身体的な制約。そういった負荷をかけつつ、台詞を発することで、いわゆる演技とは異なる『面白さ』がそこに出現するような気がする。

こういう作品に触れるといろいろと刺激を受ける。帰りの電車の中で、家常さんから僕らも何かやろうといわれ、やりたい、やりたいなぁと思う。

家常さんと池袋で別れて、メトロポリタンで待ち合わせをしていた友達のYさんと合流。喫茶店でアレコレしゃべる。先日、Yさんからホラー作品を映像で作ろうと提案され、そういったことに関しても盛り上がる。血がでたり人が死ぬ映画を観るのは苦手だけど、血が出たりする映像は作りたい。で、いろいろ話した結果、『復讐』をテーマにした短編をそれぞれ持ち寄って作ろうかという話に。時代は復讐だ。Yさんから復讐の勉強としてパク・チャヌクの復讐3部作を見ろと薦められる。まずは復讐の勉強をせねばならない。


25日(日)。雨。かなり寒い。猫のけだまを弔ってくれたTご夫妻と食事に行こうと約束しており、嫁松と夕方にマンションへおじゃまして、それから居酒屋へ。お二人とも70歳を越しているのだけどとてもお元気。お酒もお好きなようで、焼酎のボトルを頼んだのだけど、気が付いたら全部空いていた。なぜだか僕ら夫婦と猫のみぞれのことを気に入ってくれたみたいでとてもよくしてもらって、僕らもなんだか池袋のお父さんお母さんのような感じで接させてもらっている。けだまが引き合わせてくれた幸福なご縁。