東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『こぼれ落ちるような何かを感じつつ』

風が吹くと寒さも身に沁みる最近。仕事も年末に向けて忙しくなってきている。先日、職場で朝を迎え、そのまま翌日仕事をして夕方に家に帰った。その日の夜にかげわたりの宮嶋くんと谷川さんが池袋の居酒屋で飲んでいるから顔を出さないかと連絡をくれ、その席に行って少し話をしたら谷川さんも2日ほど家に帰れずに職場で寝泊まりをしたと言っていた。忙しいのは自分ばかりではない。もっと忙しい人もたくさんいるのだろう。


ヴィターリー・カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』をユーロスペースで観たのはいつだったか、先々週のレイトショーだったと思う。その日は立ち見がでるほどの盛況ぶりだった。


第二次大戦終戦直後の混乱期。戦争という極限状態が終わり、『生きる』ことに剥き出しの大人たちを目の当たりにし、その中で自分も『生きる』ために金を稼ぐ。実体験も基に作られた映画ということだけど、そうであるならば映画の中で主人公が直面する人たちや出来事は、かつてカネフスキー自身が体験した記憶から産み出されたものであるのだろう。日本軍捕虜が唄う日本語の民謡は、おそらくその意味さえも判らぬままに、カネフスキーの耳に残った『記憶の音』なんだと思う。改めて映画を作る為に、民謡を調べ、その意味を知っただろうけれど、子供の頃にはそんな異国の歌の歌詞等おそらく知る由もない。少年が聞いたのはその『音』だ。収容所で過酷な労働を強いられていたであろう捕虜が、口ずさむ『音』を聴いた記憶。それがカネフスキーの中にどういうものとして残っているのか。あえて意味を付加せずに、ありのままに淡々と描く。そうかと思えば、映画のラスト、親しい友人の亡骸の前で全裸で発狂する女の描写。突如として、カネフスキー本人であるのではないかと思われる男のナレーションが入る。それまで、カネフスキーは自分の記憶を基に、映画の中で淡々と物語を紡ぎ続けたけれど、ラストに来て、物語ることをやめて、記憶そのものをありのままにさらしている様に思えた。それまでの物語では表現しきれずに(我慢出来ずに)こぼれ落ちてしまったかのような何か。監督の意志が物語を越えてフィルムに焼き付いているようにさえ思える。


最近、仕事を一緒にしている上司としばしば映画の話になる。話せば好みの映画は違うけれど、そういう違いがあるからこそ話をしているのが面白い時もある。例えばスピルバーグの『宇宙戦争』に関して意見がまったく違ったりする一方で、『崖の上のポニョ』に関しては意気投合したりする。それが面白い。ちなみに僕は『宇宙戦争』は2001年以降の戦争映画の形をスピルバーグなりに描こうとしていて、それが面白いと思ったのだけど。