東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『新・ムラ論TOKYO』

週末は、不思議な天気だった。

土曜は大雨なのに気温はそれほど下がらなかった。
日曜は夕方に夏の夕立のような雨が降った。空を見上げていたら雲の動きが早いなぁと思っていたら一気に真っ黒な雲が空を覆った。わりとのんきに娘子のベビーカーを押して帰路を歩いていたらやけに強い雨。慌てて全力。かろうじて『やや濡れ』で帰宅。

土曜は、嫁氏が最近通っているマッサージ屋に連れて行ってもらう。
ヘルニアを患って以来、マッサージに行ってない。といっても、そもそもマッサージは苦手なので、行けない苦はないのだけど。嫁氏曰く、足ツボのみのコースもあるとのことでそのコースをお願いする。足の親指を揉まれるとやけに痛い。脳とか考える箇所が疲れているのだという。それと足裏の中央あたりでやや痛い箇所あり。そこはなんですかと尋ねると「膀胱です」と言われる。はたして膀胱の何が悪いのか。いささか謎。老廃物などがたまってるとフォローのような御言葉をいただく。


隈研吾/清野由美 共著の『新・ムラ論TOKYO』(集英社新書)を読む。とても刺激的だと思ったのは「ムラ」という考え方。僕個人的に、ずっと「群れ」という考え方のコミュニティを作りたいと思っており、それのヒントになるのではないかと読み始め、ヒントどころかいろいろ考える場所を見つけさせてもらった。

「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり、また、多様な生き方と選択肢のよりどころである。私たちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める。


そして、さらにこの言葉。

その場所と密着した暮らしがある場所をすべて「ムラ」と僕は呼ぶ。現代美術の領域では「サイト・スペシフィック(場所密着型)・アート」という言い方が あるが、サイト・スペシフィックな暮らしがある場所はすべてムラである。だから一見、都市という外観であっても、そこにムラは存在しているし、事実、すでにさまざまな場所で人々がムラを築き始めつつある。


このような言葉として「ムラ」を定義しつつ、「ムラ」の可能性を持っている町を著者である2人が歩き、語るという内容。その町として挙るのが、下北沢、高円寺、秋葉原、小布施。この4つの町が、すでに「ムラ」であるわけではない。それぞれに異なる形で、町が成り立っている。ただ、それぞれの町に理想とする「ムラ」のヒントとなる部分を探る。本書を読みつつ、「ムラ」は土地と切って離せないものであることを、改めて実感する。住んでいる土地。どこでもいいというわけではないし、どんな箱を乗っけても成立するというわけでもない。土地がコミュニティを生む土壌としてあり、その土地を『発見』する人たちがいる。とりわけ、僕自身が刺激を受けた言葉が、秋葉原を歩いた隈研吾さんが述べた以下の言葉。

そもそもムラとは、演劇的空間のことであった。人々が演技することなくハダカでつきあう場所だと思っている人は、ムラの本質が分かっていない。ムラで は、演技によって人々はコミュニケーションを行い、お互いを救出し合うのである。それは「物質的救出」でも「工学的救出」でもなく、「演劇的救出」である。


個人的に秋葉原という土地にはあまり惹かれないけれど、その町に可能性を見いだしたその言葉には惹かれる。というか、「ムラ」であっても「群れ」であって、個人的に求めるのは、演劇的な空間だ。そこにきっとコミュニティは存在すると思っていたわけで、まさにそのことを言っている言葉に出会えたことがうれしい。


偶然といえば、偶然に今、僕が住んでいる場所にいるのだけど、僕はこの町が好きだ。とても居心地がいい。この場所で、演劇的な空間としての「ムラ」のような場所を見いだせるのならば、それは幸福なことだと思う。そんなことを思う。

そして、いよいよ寒くなってきた。