東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『河と眼鏡』

tokyomoon2018-07-13

いよいよ本格的に暑くなり、ちらほらアブラゼミの鳴き声も聞こえてきた。毎年蝉の抜け殻を探すことに夢中になる娘だが、先日、今年の抜け殻第一号を見つけたらしい。


入道雲のような雲と青い空を見ると夏だなあと思う。汗っかきだし、暑がりだけど、今年はなんだか夏の暑さが良い。もっと暑くなれば良いとさえ思える。

娘の目が、乱視がでてきたようで眼鏡を購入した。個人的な感覚では、眼鏡をつけてしまうとさらに視力が悪化しそうな気がするけれど、近視、遠視ではないので、眼鏡をかけることで視力が悪化するわけではなく、乱視の煩わしさを抑えるために有効なのだという。眼鏡をかけて喜々としている娘。僕も視力が弱いし家系というえば家系か。


ホン・サンス監督の映画が連続上映されているのを知りながら、それになかなか行けないもどかしさ。知り合いから、阿佐ヶ谷の映画館で台湾の監督の映画祭がやっていると聞いたもののそちらも行けず。大好きなツァイ・ミンリャン監督の初期作品もあるというので観たいが行けず。知人にお勧めしたところ、『河』を観たが難解だったという。主人公が首が痛くなることや、住まいである古いマンションの天井から水漏れがしてくることは何かの暗示なのかと質問されたけど、どうなのだろうか。観る側の視点で様々な解釈の自由度があるツァイ・ミンリャンの作品だと思う。


ツァイ・ミンリャンの作品は、日本未上映の「パサージュ」以外観てるけれど、あまり暗喩のような表現は使わないような気がしている。けっこうそのままというか。たしかに理由は明示されない。上の階に住む住人はどうやら水道をあけっぱなしのまま不在になってしまった。ではその住人はどこへ行ったのか、というとそこは説明が無い。観客の創造に委ねる。主人公の抱える首の痛み自体も原因がわからない。もしかすると都会の汚い河に入った悪影響かもしれないし、都市に住む孤独のなんらかの悪影響によるストレス性の何かに拠るのかもしれない。西洋、東洋の様々な医学や宗教的な儀式を駆使してもいつまでも治らず、同性愛者が集うサウナに行くことが趣味の父親や、海賊版のAVを売る男性と浮気をする母親は途方にくれるばかり。父、母、息子はそれぞれの部屋に籠り会話もない。お互いが愛に飢え、性欲をそれぞれに満たす。そこで偶然に、父と息子が、互いと気づかずに慰めあう描写は、お互いの苦しみが瞬間だけでも癒される救いとも思えるし、父と息子の禁じられた悲劇的な関係とも思える。いろいろ息苦しい。ただ、最後に閉塞感のあったホテルの部屋のカーテンが開いて、思いっきり工事現場の足場が組まれた建物に視界を塞がれていたとはいえ、初めて外界を見たようにあたりを見回す主人公の表情が、痙攣しつつも少しだけ痛みから解放されたように見えて、何か解決されたわけではないし、抱え込んだものを背負い続ける宿命にありながらも、生きるしかないなーという感じがあって、突き放しつつも、そこを切り取るツァイ・ミンリャンの視線は、やっぱり人を見つめるやさしさとしか言いようがない、気もする。

なんにせよ、今日も暑い。