東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『わいわいとするメディア』

テレビ東京の『ひとりキャンプで食って寝る』ばかり見ている日々ですが、なまずが出てきたり、杉山ひこひこさんが出てくると、なんというか冨永監督ワールド全開の感じだし、最終話の横浜聡子さんの回の、なんというかなんでもない感じ。鰻を釣ろうとして釣れないだけの回の、そのなんでもない感じの味わい。終わり方もすごく力が抜けてて、良いなぁと。一人キャンプというものも、キャンプそのものもやったことないけれど、行ってみたいもんだなぁとつくづく。

あとは録画していた『いだてん』をようやくすべて見終えて、こちらもめちゃくちゃ楽しかった。どうしても歴史をなぞる描写が多くなると、戦中戦後の息苦しさは感じるし、オリンピックが政治的な使われ方をされていく中で、それでも選手優先、そして、オリンピックが東京で行われることで日本が変わる、ということを信じて動く委員会の面々の姿は素直に胸を打つし、阿部サダヲさん演じる主人公の姿を観ていると、プロデューサーという立場の人の生き方を考えるようになる。そもそもプロデューサーとはなんなのか、というと、僕自身、あまりよくわかってないのだけど、今、春日太一さんの書かれた奥山和由さんのインタビューをまとめた『黙示録』というべらぼうに面白い本を読んでいると、あらゆる物事は、強い想いを持った一人のプロデューサーによってつくられるのだなぁと、思えてきて、この『黙示録』や『いだてん』に、同じタイミングで触れることの偶然にびっくりする。

で、話は変わり『M-1グランプリ』がやっていたらしく、それを見た知り合いが、家族で見てゲラゲラ笑ったと話していて、テレビっていうのは、家族や友人、なんにせよ、複数の人と集まって、わいわい話ながら観るメディアなんだなぁと思った。もちろん、そうではない番組だってあるけれど。一方で映画は、お客さんが多数いるけれど、あくまでも個々でスクリーンに向き合い、会話はしない、という個人的な体験をするものだと思う。勝手な憶測だけど、映画が主流だった中で、わいわいと家族で話しながら観るテレビは、映画と比べると下世話と思われながらも、それでも経済が上向きになる中で、娯楽の中心になってきた。そこには、核家族化もあったろうけど、みんなで時間になればテレビの前に集まるという環境があってこそのことだったのではないか。だからサザエさんや紅白、など多く娯楽が生まれ、それを共有するようになってきた。だけど、時代が進む中で、徐々に『個』が優先されていくと、テレビもまた個人で観るようになり、そもそも、娯楽がみんなでわいわい、という方向性から個が楽しめるものに変化して行ってるのではないか。必然、番組作りもニーズによって変わっていく。「個」が愉しむコンテンツは、好みジャンルの分散化、多チャンネル、そして、「個」が発信していくチャンネルの誕生という形にもなっていったのではないか。

芸術として個々人がスクリーンと向き合う映画から、大衆娯楽としてのテレビ、そして、そこから個が愉しむためのネット、動画配信へ移行していくのは必然の流れのような気もする。だから、今、テレビは、『M-1』や『紅白』そして、ラグビーなどのスポーツのように、

みんながわいわいとするコンテンツにこそ注力されてそこを生き延びる道としつつ、動画配信などとすみ分け共存していくしかないんだろうなぁと思う。まぁ、あくまでも私見ですが。でも、テレビというメディアの本質ってなんとなくそこなんじゃないかなぁと個人的に思った次第でした。