東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

トーキョー/不在/ハムレット

■ というわけで夜勤。ちょっといろいろなことで元気がでない一日を過ごした。俺がのんびりしすぎているのか、どうもいろいろな人に迷惑をかけているような状態になっているみたいで。なんだか気分が滅入る。

■ しかし昨日は楽しかった。仕事の後に、遊園地再生事業団の『トーキョー/不在/ハムレット』本公演を三軒茶屋のシアタートラムに見に行く。今回は手伝いはせず。自分の方の公演でバタバタしており、手伝いどころではなかったし、今更「手伝いをしたいです」と言うのも気が引けるので。当日券で見に行く。思えば、この芝居のオーディションを受けたのが去年の2月。あえなく不合格であったものの、5月のリーディング公演を見に行って、文学界に掲載された原作「秋人の不在」も読んだ。7月の映画も見た。9月の実験公演は見れなかったが、10月の準備公演を見た、といった具合でほぼ1年間、何かとこの芝居にお世話になってきた。宮沢章夫さんの「不在日記」も欠かさず見ている。多大な影響を与えてくれた作品だ。

■ 本公演は、ベースとなる物語を時間軸や場所にとらわれず、むしろ解体して、ランダムに並べながら、映像やダンスを用いて上演されていた。無論、メインはそれを演じる役者の『身体』である。北川辺という埼玉の実在の町の物語を語ることで、まさに近くて遠い絶妙な位置にあるトーキョーという都市を浮き彫りにしており、また物語の焦点である秋人の不在が天皇を中心としてある今の日本の存在の暗喩としてあり、そういう世界に生きる、空虚な中心の回りにいる人々を描いた作品だ。準備公演で演じられた役者の身体性を維持しつつ、映像やダンスが入ることで、さらにクールな目線になり、芝居に自由度が増していた。これが、今、この国にある、演劇の新しい一面なのではないだろうか。そう思わせるほどに、圧倒させるものが舞台上で展開される。2時間40分もあるのに、まったく集中力が途切れない。

■ かといって、それは僕が、原作本も読み、不在日記も見て、プレビュー公演もほとんど見ていたからなのかもしれない。本公演だけを見る人とは、すでに知っている情報が違いすぎるわけで。特に、僕は今回の作品自体に入れ込んでいる部分もあるので、もう、なんていうか、冷静な目で判断できていないかもしれない。

■ これは意図されたことなのか、よく分からないけれども、携帯電話、とくにメールによって生じる人と人の距離感というものが今までのプレビュー公演よりも意識されているように感じた。芝居の後半、物語に登場した役者が、自分が発する台詞を舞台上で入り乱れて言うシーンがあるが、準備公演では台詞を言う人が、次々と携帯電話をバトンのように渡していくという演出だったが、本公演では役者の台詞がスクリーンに携帯メールのように文字として次々と浮かび上がるようになっていた。また、ラストシーンで役者が最期の台詞を言ったあと、今までは暗転してそのまま終わっていた物語が、その役者の携帯が鳴り、死んだ女の姿が舞台上に現れるという、演出に変わっていた。

■ メールによる伝達は2者間の中で生じる間接話法だ。送り手の主観が文字という情報に置き換わって電波に乗って受け手に送信される。文字が介入することでコミュニケーションに変化が生じる。明らかに直接、電話で話すのとは違う。介入するものの存在で、表現がうねる感覚。コミュニケーションにアクセントがつくことで、さらに違った様相を呈するような。本公演では映像が多用される。しかしこの映像の使い方が面白い。役者はスリットの入った板によって微妙に観客からは見えないような舞台の奥で芝居をする。それをカメラで生中継して、手前にあるスクリーンに投影するのだ。観客はその場で演じられている生身の役者の存在を感じつつも、スクリーンに映る映像を見ることになる。これも一種の間接話法ではないか。そこに宮沢さんが思うところがあるのだろうか。

■ なんにせよ興奮した私は、劇場で販売していたパンフレット、映画『be found dead』のDVD、遊園地再生事業団の芝居の音楽を担当している桜井圭介さんのCDを購入。一体どれだけこの芝居が好きなんだ、俺は。とにかく『トーキョー/不在/ハムレット』はとても刺激的な作品だ。

クイックジャパン誌に掲載されている森達也さんの連載『日本国憲法』第2回を見る。今回も刺激的。この連載によると森達也さんが監督する天皇についてのドキュメンタリーが近々NONFIXというフジ系列の番組で放映されるそうな。詳細はまだ分からないけれども、それは絶対見逃せないよ。