東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『前も来たことがあった』

■ 25日(土)。昼から稽古。少し抜きで稽古をしてから通し。今回で3回目の通し。上演時間が前回よりもわずかに長くなっていた。台詞をゆっくり丁寧に言うという演出からの指示があった分、上演時間が長くなった2回目の通しよりもさらに時間が長くなったということは少し間延びしているのだろうか。通しの後のダメだしで台詞を丁寧に言うのは大事だけど、台詞の入りは遅れないように気をつけて欲しいと言われる。丁寧に言うことを意識するあまり、やや台詞の掛け合いのテンポが悪くなっているのかもしれない。


■ ダメだしの後も稽古の予定だったのだけど、演出のM君が最近体調を崩しており、大事をとって稽古はそこで終わりになった。他の役者さんの中にも体調を崩している人がチラホラでてきている。僕も気をつけなくてはいけない。まだまだ寒い日々が続いている。最近は花粉症に苦しむ役者さんもでてきた。いよいよそんな季節か。


■ 時刻はまだ17時。急に空いてしまいどうしたもんかと思ったけど、舞台装置を製作してくれている舞台監督さんから手が空いたのなら作業を手伝って欲しいと打診があり、有志の役者5人で相模大野の作業場へ行くことになった。相模大野は小田急線で町田の隣町。駅ビルがやたらとでかい。駅から歩いて10分くらいのところに作業場はあった。


■ 行ってみて気付いたのだけど僕はかつて一度その場所に来たことがあった。それはまだ大学を休学して1年間演劇の学校に行っていた頃、2001年のそれこそ2月だったと思う。通っていた演劇学校でお世話になった講師の方が主宰をしている劇団が3月に行う公演で使う舞台装置の製作作業の手伝いでこの場所に来ていた。


■ すっかり忘れていた。相模大野なんて今回初めて来たと思ったくらいだ。2001年2月。その頃はもう演劇学校のカリキュラムが終了しており、僕は大学に復学するかどうか本気で悩んでいた。実はこの時、もう大学を辞めてしまおうと思っていた。なんとか東京で演劇をやっていきたいと考えていた。親には猛烈に反対された。まぁ当然だけど。ちょうどその時期にある有名な劇団のオーディションがあり、僕は親にこの劇団のオーディションに受かったら大学を辞めると宣言していた。相模大野の現場で作業をしている頃は確か、そのオーディションも終えて審査結果を待っている頃だったと思う。


■ その頃は小田急線といえば下北沢ぐらいまでしか行ったことがなかったので、えらく遠い場所に来たもんだと思った。まさかその数年後に町田にこれほど通いつめることになるとは想像もしてなかった。手伝いをさせてもらっていた劇団はもう下北沢の劇場で芝居をうてるほどの劇団で、その劇団の役者の方に混じって舞台装置を作っていると、なんとなく自分も東京で芝居をやっているのだなぁなんて感じたりしていた。手伝いの分際でおかしな話だけど。4月からはもっと芝居と関わる生活が待っているのだと本気で思っていた。やけに巨大なパネルに絵の具を塗っていた記憶がある。


■ 3月の上旬にその劇団の公演が終わった。東京で芝居をする楽しさと厳しさを手伝いをしながら少しだけ体感した。オーディション不合格の通知が届いたのは確かその後だったと思う。4月に僕は大学に復学した。東京を後にして大学がある北海道に戻った。その当時は都落ちした気分も正直あったけど、今から思えば復学してよかったと思う。なんにしてももう5年も前の話だ。


■ 今回の芝居で使うパネルに色を塗る。すっかり日が落ちて肌寒くなっていた。あの頃とはすっかり僕の状況も変わっている。かつてお世話になったその劇団ともすっかり疎遠になってしまった。たまにホームページとかは見るけどなんだかもう遠い存在だ。それでもこうやってまた異なる芝居に関わることで、また同じ場所で舞台装置に絵の具を塗ることになるとは。なんとも不思議なもんだ。20時過ぎに作業は終了。それでもまだ舞台装置が完成したわけではない。スタッフさんたちは明日も朝から作業だという。こうやって作業をしてくれる裏方の方がいてはじめて舞台は成り立つ。役者だけでは芝居は作れない。いろいろ感謝しつつ、そういったことに報いるには自分に課せられた役者として役割をきちんとこなすしかないと思う。いい芝居にしたい。そう思う。