東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『ク・ナウカの王女メデイア』

■ 昨日、会社で眼科検診をやっていたのでせっかくだから受けてみる。眼科医の方によると僕の眼は乾きやすいのだそうで、コンタクトなどをつけると目がショボショボしてくる原因はそれなのだという。で、以前、ソフトコンタクトを変えた時に市販の目薬をさすことを控えろといわれた旨を眼科医の方に言ってみたところ、結局目薬は外部から眼に水分を与えることになり、とうぜん潤うわけだけど、自分の身体で眼の水分調整をやらないことになるわけで、目薬に依存しないと駄目な眼になってしまうので、できる事なら自分の身体の機能だけで水分をきちんと眼に与えることができるようにしたほうが望ましいからだということだそうで。でも結局自分の身体でといっても瞬きくらいしかできないんだけれども。


■ 16日(日)に、東京都写真美術館に『恋よりどきどきコンテンポラリーダンスの感覚』という企画展を見にいってた。ダンスという分野にまったく無知なので、ちょいと勉強の気持ちでいったのだけど(あわよくば今度の芝居の参考に)、そういう意向とはまったく関係なくただ楽しんだだけで終わってしまった。一度はきちんと劇場で見ろということだろう。


■ で、昨日。先日NHK教育テレビで放送していたク・ナウカの芝居『王女メデイア』を録画したビデオを見た。あわよくば今度の芝居の参考にパート2。

『一番の特徴は、「語る」俳優と「動く」俳優が分かれており、主な登場人物はすべて、二人一役で演じられる点です。座ったまま台詞を語る俳優と、人形のような無表情で動く俳優の、抑圧され純化されたエネルギーが舞台上で交錯する時に生まれる、日常を超えたダイナミズム──これこそク・ナウカの醍醐味です。』

とは、ク・ナウカのホームページに書かれているク・ナウカの芝居の特徴を紹介した文章だけれども、『王女メデイア』はまさにそのような演出の作品だったわけでした。さらに面白いのはそれが今回の作品に限ってのことなのかはわからないのだけど、役柄としての男役女役は関係なしに、「語る」役は全て男性が演じて、「動く」役者は全て女性が演じていたことで、例えば主人公である王女メデイヤ役は「動く」俳優は女性が演じて、「語る」俳優は男性が演じていた。つまりまず役が2つに分解されて、さらにその役の性別までもが分解されているのだ。作品が物語とは別の部分で何重にも分解されているわけである。


■ さらに紹介の文章にもあるように「動く」俳優は表現が抑制されている。表情の変化は一切ない。その上、せりふもないわけで、許されているのは身体の動きのみ。で、一方「語る」役者は台詞を語ることに関してだけ感情表現を許されて、「怒る」「悲しむ」といった表現が台詞によって表されるが、常に座っていることを要求されている。いずれにしても役者はどこかしらに制限がある。


■ 役者レベルで考えれば不自由極まりない芝居形態なのかもしれないけれど、立体化された舞台そのものはとても魅力的なものとして存在している。2人の役者が1人の役を演じることで、その役の表現は2倍になり、観客は自分の意思で視点を変えながらそのどちらも楽しむことができることになるわけだ。


■ これは僕個人の感想だけれども、一つの役が2つに分解されて、異なる表現が一度に舞台で示されたときの、あの観たことがない風景を見せられた感じはなんともいえないものがある。かゆいとことに手が届くとかそういうレベルではなく、こんなツボもあったのかと初めて教えてもらったような驚きと喜びとでもいいますか。なんだか胸のうちに今までに感じたことがない感覚が広がるような気になるわけです。これは刺激的な作品を見たとき感じる悦びと似た感覚です。


■ テレビ放送分ではさらに公演後の主宰の宮城さんのインタビューがあるのだけど、王女メデイアの復讐を、ギリシャ都市国家設立以後の社会システムとそれ以前の社会システムの対立のメタファーと見立てていることや、舞台設定を日本の明治時代とし、江戸時代までの旧社会システムと明治時代からの新システムとの対立を取り込んだりしていることを語っており、そういったところでも徹底的に『演出』している宮城さんは、なんともすげえ演出家なんだなぁと思ったりしました。いや、ほんと竹中直人監督作品の「119」に大学院生役で出演していたことしか知らなかったので。あれとのギャップに驚かされます。