東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

寝坊した

■ 完全に寝坊した。朝起きたら10時だった。10時っていったらもう働いている時間だ。とにかく会社に電話。「今、起きました」という、せめてもうちょっとつくろった言い方があるんじゃなかろうかと思うぐらい正直に間抜けな言葉で、遅刻を報告した。この仕事で初めての遅刻だ。まったく目覚ましに気づかなかった。体は疲れていたのかもしれない。

■ もう、こうなってしまうとどんなに急いでも午後1時からの仕事になるので開き直って本屋へ。宮沢章夫さんの「サーチエンジン・システムクラッシュ」(文春文庫)を購入。そういえば年末に買った本も、まだ少ししか読めていない。なにかとバタバタしていた。どんどん読もう。インプットしていこう。今読んでいるのは芝居で共演したHくんが貸してくれた松尾スズキさんの「宗教が往く」(マガジンハウス)。まだ途中だけど面白い。登場人物みんな狂っている。狂っているけど、書かれていることはなんとも正しく、孤独で、美しい。

■ 仕事場へ向かう電車の中で「宗教が往く」を読む。面白くて笑いそうになるが、電車の中なのでこらえる。しかしそうすると顔がおかしな歪みかたをしてしまう、しかも笑うのを堪えて体をくねらす。なんだか尿意を堪えている人みたいになってくる。実際のところが、どうであれ、隣の席に座り合わせた人にしてみると「困った人の隣に座ったもんだ」と思うのだろうな。で、電車が浜松町駅に到着。と、電車の同じ車両にHくんを発見。僕が「あ」という。Hくんも「あ」と言っていた。こんな偶然があるのか。たまたま寝坊して、たまたまフラフラしながら乗った電車の同じ車両に居合わせる。しかも、つい一昨日まで同じ芝居に出ていた人に。そのうえ、僕はHくんに借りた本を読んでいたわけだ。面白いもんだ。

■ 芝居のことで少し思うのは、書き手の目線だ。どのような目線で見つめるか。稽古の合間にMくんとそういった話になったときがあった。例えばそれが感情を前面に出した芝居だとする。見ていると沸騰しているお湯のような熱気だ。正直、暑いよと思う。沸騰したものばかり見せられると、むしろその物語の軽さを感じる。Mくんはそういった沸騰させるような演出を要求されると、むしろ冷めた演技をしたくなるという。沸騰したお湯を凍らせてみるといった演技。それは沸騰しているお湯を、また違う視線で見つめてみようという試みだ。蒸気や熱でごまかされないように、水という単体へアプローチする。その視線は間違えていないと思う。Mくんが見せてくれた台本はそういった視線で書かれている。しかし、例えばお湯を凍らすという視線を前面に押し出すと、今度は返って、見えにくくなるもののある。それが何かと言われると難しいけども。僕が目指したい目線は融点だ。沸騰しているのなら冷ます。凍っているのなら溶かす。水という物質を、ただ、そこにある水として捉える視線。そんな視線を持ちたいと思った。で、Mくんに聞かれた。

「それはどんな演出ですか?」

そうなんだよなぁ。それが僕にもまだ分からない。おそらく今後、自分の芝居にとことん関わってくることになると思う。というか、それはきっと芝居だけでなく、あらゆる物事に対して、思うことだ。融点で見つめ続ける。そういう芝居、そういう演出、そしてそういう生き方。

■ 昨日の夜にYしゃんから電話をもらった。2月の下旬に楽しいことになりそうだ。いやはや楽しみだよ。