東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『物語について』

tokyomoon2009-03-10

■観劇したPortBの芝居『雲。家。』の中で、一つの象徴として池袋のサンシャイン60が映像の中に登場するシーンがある。

カメラの一番手前にはカメラを置いた場所、おそらくそれはどこかのビルの屋上の様な場所でそこのフェンスがあり、それからJR池袋駅のホームとそこに発着する電車が見え、その向こうにビル群があり、そこにひと際高くそびえ立つサンシャインのビルがある。どこから撮影したのだろう。すごく広角なレンズで持ってそれは撮影されたのだと思われる。
一緒に芝居を観た、高松子氏はPortBのワークショップに参加したことがあるらしいのだけど、主宰で作・演出をされている高山さんという方は、とにかくすごく町を歩くらしい。おそらくそういう過程で発見されたその場所にカメラを置いたのだろう。
風景の発見。世界の発見。


■『Helpless』小説版を読む。一緒に入っている2編の短編『わがとうそう』『軒下のならず者みたいに』と、この3作品は、映画にも登場している4番目の主役、秋彦を中心として、ある。

『Helpless』では主要な登場人物(健次、安男、ユリ)ら主人公たちを、秋彦という客観的な目線から見ることになる。映画と言うバックボーン無しでは、彼らの行動の背景を知ることができない。ただ出来事だけが提示される。『軒下のならず者みたいに』では、秋彦が自分の体験を基に『Helpless』という小説を書いたという設定の元で、不意に登場する八十嶋という編集者と秋彦によってさらに健次ら登場人物たちが間接的に語られることになる。
映画では、カメラという視線から主人公たちの行動を間接的に観る。カメラが監督とカメラマンと言う製作者の客観であるとするなら、一段階目のフィルターがここに入っている。
小説版『Helpless』では、秋彦の目線からの登場人物が描かれることで、小説家のフィルター、さらに秋彦のフィルターという2段階のフィルターが存在することになる。
さらに『軒下のならず者みたいに』では、その『Helpless』さえ秋彦が書いたものとされ、小説家、秋彦、その秋彦が書いた『Heelpless』を読んだ八十嶋というもっと何十にも重ねられたフィルターによって登場人物たちが、描かれる。すでに小説の中で、それぞれの受け止め方で登場人物たちの描かれ方が異なってくる。
人によって、捉え方が異なることを、すでに小説の中で書いてしまう。起承転結、誰それが何々という理由からこれこれという行動をする、といったことを描くことが物語ることだとするならば、そういうこととは一線を画した、物語の試み。
軒下のならず者みたいに』は、青山真治さんが映画で描こうとしたこと、映画を撮った後に、あえて小説で改めて『Helpless』を描いたこと、そして物語ることへの意志が描かれているように思えた。

「真実」など糞喰らえですよ、と秋彦は心の中で呟いた言葉を八十嶋に向けて反復した。この世にはものがあるだけなんですよ、あらゆるもので溢れているこの世にそれらを時として結びつける何かが起こり、我々はそれを見てそれを知って自分の考えに基づいて解釈する、それがすべてではないですか。それがあなたの仰る「真実』という物語の全貌ではないですか。そんなものは形式を取り出して肉づけを変えればいくらでも捏造できる、しかし結局すべてはものに帰って行くだけなんです。
(中略)
しかしね、それならば我々は何もしないことを選択しますよ、何もせず、珍しくもない、ただのものとしてだけあること、それだけがあなたのやろうとする「真実」という美名の下での標本化への抵抗ということになりますかね、