東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

のどかな週末

■のどかな週末だった。もう芝居の本番から1週間経ったわけだけど、なんだかあっという間だ。そういうものなんだろうな。日曜の夜、関東には雪が降った。せっかくの雪だったけれども、やはり水分が多いのか、地面に触れるとすぐ溶けてしまう。夜の街に降る雪は、車のライトに照らされているとずいぶんと降っているように思えたが、アスファルトを濡らしながらいつの間にかなくなっていた。

■金曜の夜に会社の人たちが主催するボーリング大会に参加した。総勢52名も参加した一大イベントだ。お台場のボーリング場の半分ほどを借り切った状態でその大会は催された。ボーリングは久しぶりだった。最初のゲームは122とそこそこの結果だったが、次ゲームは167と自己最高記録を出せた。ほとんどスペアを取れて、たまにストライクを連発した。これまで150を超したことがなかったので、これは嬉しかった。しかも52名もいたのに総合で4位に入ることができた。よかったよかった。

■土曜は後楽園遊園地というテーマパーク内にある「ラクーア」という天然温泉の施設に行った。東京のど真ん中にあるのに天然温泉が出ているらしい。よく掘ったもんだ。でもそのおかげでとてものんびり出来た。特によかったのが、低温サウナだ。40〜50℃くらいに設定されているそのサウナは、横になってくつろげるようになっているものもあり、そこで横になってボーっとした。そこで昼寝をした。昼寝は本当に気持ちがいいな。夕方くらいからどんどん混んできてくつろぐどころではなかったが、それでもずいぶんゆっくりできた。

■日曜は何かをやろうと思ったが、しかし何もやる気が起きなかった。とりあえず洗濯をしてみて、部屋を掃除してみた。するとなんだか他にやる気が起きない。で、久しぶりに買った漫画、羽生生純の「恋の門(ハンディ版)」(エンターブレイン)1巻と五十嵐大介の「はなしっぱなし」上・下巻(河出書房新社)を読む。五十嵐大介さんの「はなしっぱなし」は、この世界に存在する言葉では言い表せないようないろいろことを作者の解釈で好き勝手に想像しているような作品で、そこが面白い。太陽や、雨、雪、風、季節の変化に関して、まるで御伽噺のような話がひろがる。その書き方は、しかし押し付けるような傲慢さはどこにもない。ただそこにある。そしてその世界に住む人たちを何でもないように描いている。その手つきがとても心地いい。

■それから本も読む。松尾スズキさんの「宗教が往く」(マガジンハウス)読了。宮沢章夫さんの「サーチエンジン・システムクラッシュ」(文春文庫)読了。演劇というフィールドで有名な2人の小説作品。フクスケという名の主人公の人生を描いた「宗教が往く」。池袋の街を徘徊する男の物語の「サーチエンジン・・」。文章の書き方はずいぶん異なる。無理やり共通のものを見つける必要もないんだろうけど、どこか似ている部分を感じる。壮絶な人生を突き進むフクスケ。その人生の中で何度も繰り広げられる死。絶望。それでも所詮人間はただの人間。ただただ無力。そんな彼等が、物語の終盤死のウイルスに蔓延された世界で歌う。

 『奇跡も起きないこんな夜に
  宇宙の果てでぶっちゃけた話をしよう
  恋ははかないあなたはこない
  かっこつけても一度はウンコをふむ
  魔法も科学も宗教も
  かつては一度ウンコふんだ奴が
  悔し紛れに昨日見た夢
  だから神様よ見栄はるな すぐばれる
  いないのならばいいけれど
  「いない」という名のダンスを踊ろ
  あなたは見えない 宇宙は見える
  宇宙は見える ところまでしかない』

トチ狂った人の叫びとは僕は思わない。で、その果てにたどり着いたフクスケの結論。

 『思い描けない未来を思い描くのみだ。
  無限は見えるところまでしかない。
  かつてそこにあり今はないものの歌を、私は繰り返し歌うだけ。
  (中略)
  ただ、ここから後の奇跡は、僕が僕の責任で起こす』

学生時代の友人が殺人事件を起こしたことをきっかけに池袋の街を徘徊することになった男を描く「サーチエンジン・システムクラッシュ」。

 『生きているのか死んでいるのかさえ、わからない。その曖昧さに耐えられるか?』

かつて教わった畝西という名の教授から言われたその言葉が、池袋を徘徊しながら何度も思い出される。その言葉の意味を知ることで何かが分かるかもしれないと思い、必死になって探ろうとするが、何も見つからない。何も起こらない。そんな最中にたどり着く結論。

 『そう、自分の声だ。自分の声でつぶやかなければいけないと思った。
  (中略)
  本当のことはもうわからない。
  ただ僕は思った。
  あれからもうずいぶん年月が経ったが、その曖昧さに、ぼくは耐えられていただろうか』

 人間の生ははかない。自分は何かの役目を負って生まれて、生きて、働いて、死んでいくのだと心の中のどこかで思っていたとしても、おそらくそんなことはなく、日々の生活に埋没されていく。せいぜい知り合いや身内と会話を重ねて、たまに遊んで、何かを食って、何かを感じて、死んでいく。松尾スズキは過剰な人生を描くことで(いわば動)、宮沢章夫は何も起こらない一日を描くことで(いわば静)、人間の生きることに意味はなく、それでも前に進むしかないと描いている気がする。希望と言うには何もない。そんな絶対ゼロの位置にある生。そうであると気付くこと。

そのことに気付くことが重要だ。無関心で生きていくことも一つの方法かもしれない。しかしそこに気付くべきだ。きっと気付くべきだ。絶望に向かい合う。しんどい。つらい。ならば、せめてその絶対ゼロの絶望を笑い飛ばそう。ここから始めるしかないから、もうきれい事はいらない。そして自分勝手に想像しよう。ここにいることを選んで、進むからにはこの状況を自分の都合よく思い込んで生きていくのがいい。だから創作が始まる。きれいごとではない創作が。絶対ゼロの位置にいるつらさや不条理、哀しさをしょいこんでいけるように折り合いをつけるための創作だ。音楽でもいい、ダンスでもいい、絵画でもいい、そして演劇でもいい。

近代文学が、近代という時代に日本人であること=アイデンティティの形成に重要な位置を占めていたとして、近代文学が終わった今、それでも創作を続ける意味は何か。夢も希望も絶望も全てをひっくるめて絶対ゼロの位置にいる。『イマ、ココニイル』。そこに立ち、生きつづけるために必要なんじゃないか。折り合いをつけるために書く。僕にはそれが書き続けるためには十分な理由になる。