東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『晩年の仕事のなせるわざ』

昨日、山形に帰省していた嫁氏と娘子が帰ってきた。向こうで発見したらしいが、娘子はスーパーの袋に興味を持ったようで、袋を持つと夢中で伸ばしたり縮めたりを繰り返す。それを見ると、なぜそれほど夢中になるのかと不思議に思うけれど、眺めるのが愉しい。さすがに山形は寒かったらしく、嫁氏は風邪を引いたようで体調が悪い。娘子は今のところ、そういった兆候はないものの、間もなく生後6ヶ月を向かえるのでそろそろ免疫力も低下してくる頃なので、これからの季節は気をつけなければならない。


大江健三郎さんの『水死』読了。水死した父の残した資料が入った『赤革のトランク』を手がかりに、作家・長江古義人が、長江の作品を題材に芝居を作る劇団の人たちや、自身の身内の人たちと接しながら、父の死についての小説を書こうとする話。基本軸として、一人称の語りで小説は進行する。1つの事柄に対して、登場人物の語る数だけ意見が積み上げられる。『父の死』の解釈も人それぞれに違い、その言葉によって、それぞれの考え方(つまり生き方)が見えてくる。小説内で展開される『死んだ犬を投げる』芝居自体が、1つの事柄に対して議論する形態をとっているのも、そういった構造を意図したものと思う。400ページを越す長編の中であらゆる方向から語られる言葉は、小説の終わりに1つの方向に回収されるのかとおもいきや、クライマックスに劇的なひとつの出来事が生じるけれど、そこに特定の、結論めいた何かがあるかといわれればそういうものはなく、むしろ語られた言葉はそのまま残される。
ネット上に感想を挙げている、どこかの誰かの日記に引用されたエドワード・W・サイードの文章が、この小説の感想としてふさわしいものに思いました。

「それは幻滅と快楽とを、その両者の間の矛盾を解決することなく、提示
  できるのだ。両者を、反対の方向へと引き裂かれている等しいふたつの
  力として緊張関係のなかにつなぎとめているもの、それこそが芸術家の
  成熟した主体のなせるわざである。芸術家は、もはや、傲慢さとも尊大
  さとも縁を切り、そのあやまちを恥ずることもなく、いわんや老齢と追
  放の身の帰結として得られた控えめな確信めいたものを恥ずることもな
  いのである」
  (『新潮』1月号 サイード「晩年のスタイルに関する考察」より引用)


秋めく日々。坂本龍一さんと大貫妙子さんの『UTAU』に入っている『赤とんぼ』を聞くとその歌詞が、現在の立ち位置から、もうずいぶんと過去のことを回想しているということを改めて知ることが出来た。歌詞の4番で「とまっているよ 竿の先」とあり、その赤とんぼを見たことで喚起されたおぼろげな記憶を言葉にしている。大貫さんの歌声を聴いて、一番に感じたのは、『時間』で、もっといえばそこに老いを感じるのだけど、でもそれは否定的なことではなくて、今の大貫さんの声だからこそ響くものがあって、それが『赤とんぼ』を聴いて僕にはものすごく強烈に感じることが出来た。童謡として認識されている『赤とんぼ』は、しかし、そこに出て来る登場人物の立ち位置は、もっとずっと年を重ねた人物で、『夕焼け小焼け』という柔らかい印象を与える入り方に対して、『まぼろしか』や『絶え果てた』という言葉に、その人物の過去を思う姿が想像できて、それがとても胸を打つ。