東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『秋になってきた』

tokyomoon2018-09-27

徐々に涼しくなってきたなぁと思ったら、雨が続き、むしろ肌寒いと思える日々。考えてみたら、もう9月も末。半袖でどうにかなる季節はもうすぐ終わりか。


土曜に仕事の用件で幕張へ行き、1時間ほど空いたので、海へ行く。波は穏やかで、釣りをしている客がいる。ノラ猫が2匹いて、その猫に餌をあげている男性がいる。ノラ猫は海の近くを根城にしているのだろうか。冬はどうするのだろうか。ぼんやりと海を眺める。わずかな時間だけど落ち着く。


その後、仕事を終えてから急ぎ池袋へ。南池袋公園にて、区のプロジェクトとして『三番叟』の上演があり、それを家族で観に行く。五穀豊穣を祈り踊られる舞踊。映像にて主催者挨拶が流れるが、海外の方にむけてそれに英語のテロップがついてる。舞踏は『praying dance』と訳されていて、なるほどなぁと思う。想像よりも動きはダイナミックで、素顔で踊る前半と、面をつけて踊る後半にわかれている。『三番叟』の後に、江戸時代に登場したという『操り三番叟』が上演された。当時流行した操り人形の動きをヒントに、歌舞伎役者がまるで糸で操るように人を動かし、三番叟を演ずる。どこかしら道化のような動きがあり、時代の流行の中でそれが出現してくるのは、何やら興味深い。どちらがどう、ということではなく、演者達はそれぞれの時代で面白さを見つけて、それを表現に取り込もうとしているのだなぁと実感する。『三番叟』はpraying danceだけに物語性は無く、そこに具体的な意味はないという。そういう表現がずっと昔からある。だからこそ強度があり今にも続いているのだろう。


翌日は、掃除をしてから北千住へ。予報では雨が降るということをチラッと言っていたが、晴れ間が見えていたので傘は持たずでかける。北千住は最寄駅からは微妙に行きづらい。朝は明治神宮前原宿で千代田線に乗り換えて移動。祝日の朝だけに人もまばら。


モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』を観劇。お金の価値をめぐる幾人かの登場人物のスケッチ。不妊治療にお金をつぎ込む女性。派遣社員として銀行のローン関係のコールセンターに働く男。整形を繰り返す女性。本業で鏡を売りつつ、副業でデイトレーダーをする男。身体を売る女性。自分の性に悩み登校拒否している女子。その女子を学校に通わせようとする教師。ニセ札作りをする自称芸術家。彼らが関わったり関わらなかったりしながら、劇は進行していく。自称芸術家の方の怪しさがただ事ではなかったけど、精緻に作られた日本紙幣の美しさに魅せられてそのニセモノ(ニセ札)を作ることに執心する姿は、実はこの劇作のなかではある種の誠実さがあるのでは、とも思う。自分の性に悩む学生にかけた「本物でもニセモノでも自分のなりたいものになればいい」という意味の言葉が、ある種の救い、少なくともガムシャラにその女子を走らせ、劇のクライマックスに彼女(いや彼か)がとる行動のきっかけになったことは間違いない。日本紙幣そのものの美しさに囚われニセ札を作る自称芸術家の想いなど知ろうともせずにその精緻に作られたニセ札を破り捨て「金そのものに興味ない。金のもたらすものに興味がある」といったことを言い切る投資家の現代の資本主義社会をたくみに生きようとする男の台詞は重い。実際のところ、登場人物たちはある種の偏りを持って描かれるが、決してそれは突飛ではなく、自分たちのすぐ横に存在する人物のようにも思うが、それはもちろん劇作としての表現として起用された節はある。が、1000人にも及ぶ一般の人にインタビューをして構成された映像で「あなたにとってお金とは」と問われ、人によっては屈託なく、人によっては言葉を選びながら、その問いに答える人たちの映像が劇の合間にランダムに流れる構成の中で、無数のお金に関する問いを投げかけられることは、面白さと一緒にだいぶ切実な気持ちになる。会場として使われた地下室の昏さが良かった。



外に出て、少し歩く。普段、北千住などは駅前くらいしか歩かないが、少し歩くと団地やマンション、首都高に挟まれつつ荒川が曲線を描きながら東京湾へ続いていた。遠くにスカイツリーが見える。ベンチに腰をおろし一息。少し公園のようになっているスペースには水が小さな滝のようになっているところがあり、そこで子供達は裸足になって遊んでいる。雨が続いていたけれど、この日は晴れて少し蒸し暑いくらいだった。ぼんやりと川を見ながらしばしの時間。それから三ノ輪橋まで歩き都電で帰路へ。



その後は雨が続き、気温もぐっと下がってきた。ついには長袖のトレーナーを着て寝床へ。もう夏は完全に終わったかもしれない。