東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『記憶に委ねられる映画』

実家から戻り、一息ついてから、無性に映画が観たくなり、ユーロスペースで何をやっているのか調べる。というのも、ユーロスペースは1月2日が新年初日なのでこの日が映画の日の繰り越し日になる。1100円。気持ち得した感じになる。で、調べてみると『この世界のさらにいくつもの片隅に』と『男はつらいよ』がやっている。いろいろ検討した結果、『男はつらいよ』にしてみる。それで渋谷へ出かける。電車の中はそうでもなかったけれど、渋谷に降り立った途端、驚くほど人がいた。もう、それは、ほんと歩くスペースもないほど。文化村あたりまできてようやく人もまばらになり、ユーロスペースのあたりは、ほぼ人がいなかった。で、受付にいくとやけに静か。で、時間を確認するとすでに上映時間を過ぎていた。とはいえ、まだ予告編の上映中とのことで、急いで入場。本編開始に間に合った。『男はつらいよ』に興味を持ったのは『東京人』という雑誌の映画特集を読んだからで、とはいえ、最初に触れる作品がこの、ある意味では特別な作品で良いのだろうかという向きはあるのだけれど、『東京人』に書かれたエッセイの中にも、観たタイミング、触れた作品からそれぞれの『男はつらいよ』がある、という文章もあったような気がしたし、これはこれでいいだろうと思うことにする。場内の年齢層はやはり高い。これがユーロスペースかと少し驚く。

映画は、寅次郎にとっては甥にあたる男性が小説家になり、初恋であった女性と不意の再会を果たす出来事を軸として描きつつ、都度、回想のように過去の寅次郎がでてくる作品の映像が流れる構成になっている。基本は『今』であり、寅次郎は旅に出たまま不在である。登場人物たちは歳を重ねている。それは劇中の、役どころの設定ではあるけれど、実際、役を演じる俳優たちも歳を重ねており、『今』の物語と過去の映像が同じスクリーンに映されるとき、物語としては描かれない(映画がつくられなかった)時間さえもが、一気にこの映画を形作る要素の一つとして存在するように思える。

もう一つが回想として過去の作品の映像が使用されること。それらの作品を一つの作品として見るとき、それは過去の回想ではなく、時間からは独立した作品として存在する。もちろん、作中での時代設定などはあるが、それはあくまでも作中での時間軸に過ぎない。だけど、この「おかえり、寅さん」で過去作品の一場面が切り取られる場合、それは「記録」としての役割だけではなく、登場人物の「記憶」としても出現するが、それが単なる一つの意味合いでなく、受け手一人一人にとっての「記憶」の再生のきっかけを作る。亡くなってしまった人、もしくは不在の人を思い返す方法とは何ができるのか。例えば写真を見返す、録画をした動画を再生する。そういった「記録」されたものを駆使することがあるが、人はその「記録」に触れることによって、それぞれの中にある「記憶」を呼び戻す。劇中に登場人物たちの台詞によって、回想シーンとして記録された映像が流れるとしても、それは単なる一つの事実としてだけ存在するわけではなく、その登場人物の「記憶」を揺り起こすし、さらには、観ている受け手それぞれの「記憶」も揺り起こす。回想は単なる記録ではなく、俳優、登場人物、おそらく製作に携わったスタッフたち、そして観客、それぞれの中に委ねられて、それぞれの「記憶」に触れて、「今」の物語と接続する。長年、同一の俳優、そしてスタッフたちによって紡がれた作品だからこそできるとてつもなく壮大な映画なのだと思う。

僕の見方は、やはり順番としてはあまりよくはなかったと思う。過去作品との連動であろうけれど、劇中のやりとりはどこか気恥ずかしい部分もなくはなかったけれど、これもその作品に触れた人たちにとってはとても心揺さぶられるものなのだと思う。

というわけで、どこかタイミングをみて、改めて他の作品も見なくてはと思いつつ。しかし49作品もあるわけだから途方もない。とはいえ、ゆっくりと観ればいいかと思いつつ。

で、早々に混雑している渋谷を退散し、帰宅。録画していたバラエティを見つつ、筋トレしたり夜ご飯を食べる。で、あまり眠くない。考えてみると実家で朝10時まで寝ていたからだ。それでもう一本、映画を観る。エドワード・ヤン『恐怖分子』。これも異なる面白さ。それでようやく眠くなり、布団に入る。