東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『桜もそろそろ見納め』

朝、いつも通り起きる。実家の僕の部屋は陽射しが結構入るので、朝は自然に目が覚める。

母のかかりつけの地元の内科へ。朝からずいぶんな人。で、そこで看護師さんに諸々説明する。こればかりは、本当に仕方がないし、当事者の僕たちですら、わけわからなくなる経緯で、病院にかからなければならないので、それをいちいち説明するのも難しい。

つまるところ、紹介状という名のたらい回しだ。で、こちら的には、正直なところ「もう、いいや」なのだけど、お医者さんとしてはそういうわけにもいかんのだろう。だが、申し訳ないが、そこに関して「大丈夫です、と言ったことで、何かあった場合、あの時、大丈夫と言ったじゃないか」と言われないために、「とりあえず検査で」「とりあえず紹介状で」と言われている気がしてならない。まぁ、これだけ多くの患者さんを日々診なければならないわけで、流れ作業にならねばならないところは十二分に理解できる。実際、こういったわずかばかりの診察で、診察というか会話するだけでも20~30分は待つわけだし、それでもそれを聞きたい人たちが病院にやってくるのだ。どこかの誰かがかつて言っていたけど、つまりは医者は薬を処方する存在だと。なんでもいいからとりあえず、薬だしといてと。まぁ、むろん、そんなことも無く、矜持を持って臨む方もいらっしゃるのだろうが。元々論でいえば、こちらが体調が悪くて医者にかかりたいのだから仕方がない。

「2000円です」

受付にてさらっと言われる。これで保険料分なわけだから、実際はもっとかかっていることを考えるとちょっとびっくりする。父が亡くなり、母が倒れて、ちょっとどうかと思うほどの出費、経費がかかっていて、今更どうのこうのではないが、病院関連ってやつは、恐ろしいほど時間と金がかかり、そのうえ、極めて効率が悪い。引き延ばされているだけのような診察。それでも、母は「処方される薬が減って良かったねぇ」的なことを言っている。まぁ、そういった『安心』を買うための2000円と時間と思えばいいのか。

僕はといえば、別に完全健康体とは思わないし、過信するつもりは毛頭ないが、先日の背中の寝違いという謎の痛みを経て、薬の力で痛みは和らいだものの、薬を飲んでからどうも腹の調子が悪いという事態に陥ってから、つまり薬は自己免疫力の補助でしかないし、痛みを和らげるということは、何かしら、自然とは違う何かを肉体に強いてるのだということだ。もちろん、歯痛や、背中の痛みなど、どれほど薬によって苦しみから免れてきているか、その恩を忘れたわけではないが、もう薬に頼るのはできるだけやめようと思う。そんなことを思いつつ、しみじみとし、母とわかれて、職場へ向かうため、駅へ歩く。

母とは、駅へ向かう交差点で別れたが、振り返るとしばらくその場で見送ってくれていた。申し訳ない気持ちになる。ゆっくりできてない。とはいえ、仕事もある。働かにゃいかんしのうと思う。川沿いの桜が綺麗だった。そろそろ散ってしまうのだろう。少しだけ立ち止まってぼんやりと眺める。

諸々殺伐とした気持ちで、働いていると、夕方、また思いもよらぬ訃報を耳にしつつ、それに若干の対応をする。自分もまた歳を重ねている。生きる喜びをかみしめることができるが、死にも近づいてきているのだ。様々な言葉がその訃報に飛び交うが、こればかりは各自が向き合うものなのだろう。

そんなこんなで仕事を終えて、一息ついたら、気が付いたら眠っていた。