朝7時半、起床。外は雨。朝食を食べて朝ぶろへ。戌井昭人さんの短編「植木鉢」と「鳩居野郎」をさらさらと読む。嗚呼、身に沁みる。ここに描かれる男の主人公たちは、自分がそうである可能性を否定しきれない、かもしれない、と思わせる。
外へ。寒さは厳しい。雨の街を歩いていると、ソールライターのような写真を撮ることができればなぁとスマホを構えてみるが、そううまくいくわけもない。ロベール・ブレッソン監督の「白夜」を渋谷の映画館で観る。
街ですれ違う女性にポンポンと一目ぼれをして、声をかけるわけでもなく、軽めのストーキングをして、警戒されて去られるという哀しいほどにナヨナヨした青年が、生真面目さだけでまた別の女性を振り向かせようと試みて、叶いかけた矢先にちょっと引くほどの展開であっけなく終了する。ただ、その最後の夜は、本人をして「一生に一度の夜」と言わせるかけがえのない時間であった。おそらく、数年も経てば「あの頃は若かったな」と一笑に帰すかもしれない一夜だったかもしれないが、それでも、一時でも、その夜を肯定できることが美しいのかなと思う。それにしても、男はロマンチックに月を見上げ、女は現実を見るかのように、雑踏の中で愛した男を見つける。夏目漱石ばりに「月が綺麗ですね」と言った男の顛末は泣けるほど哀しいが、それもまた、自分に置き換えてしまいそう。
映画を観終えて、スマホを立ち上げると仕事に関するlineや着信。日曜の朝なのに。それからそれらを少し対応。週明けに向けて、やや気持ちが萎える。
昼過ぎ、少しだけ仕事。その合間に、仕事先の施設にあった図書館にちょっと立ち寄り、本を物色。前田司郎さんの戯曲「生きてるものはいないのか」があったので、少し読むつもりで一気に読んでしまった。不条理劇と読んでいいのかといえば、コロナ禍を経て、これ、実際にあってもおかしくない事態であるかもしれないとも読めるし、何より、この、生きると死ぬの、あっけない滑稽な扱い方ができることに、ページをめくるごとに戦慄する。畏怖に近い気持ちで台詞を読んでいく。こういう手触りは、しりあがり寿さんの「方舟」や「ジャカランダ」にも通じる、気がする。
本を読み終わり、仕事を終えて、昼夜兼用の食事を吉野家で。それから新宿へ移動し、少し喫茶店で読書。夕方には雨が止むかと思ったけど、結果、降り続ける。
それから、スティーブン・ソダバーグ監督「プレゼンス-存在-」を観る。映画のラスト、鏡に映るのは息子の姿だけど、あれが一人称として描かれたカメラの目線を担った『存在』が入れ替わったのかどうなのか。もともと、その家に憑いていた『存在』なのか。とすると、鏡を映したあとに倒れこむ母親を助ける父や娘をカメラ(『存在』の目線)がとらえたところに息子は映っておらず、と、すると『存在』同士も、互いには確認できないことになる。どちらなのか。一つの家に、一つの『存在』しかいられないのか、何かの目的を成し遂げることができたのか、カメラは徐々に後づ去りながら、玄関を出て、外へ、上空へと昇っていく。
夜の新宿歌舞伎町は賑やかすぎて、住む世界が違うので、早々に退散。帰宅して、筋トレしつつTverでバラエティをちらほら。
先週の忙しさにややふさぎ気味だった時、知り合いから「木の芽時」だからかも、と助言を頂く。調べてみて、そういう言葉があると初めて知る。この時期特有の心持を、こういう風な言葉にできるのか。言葉は人を安心させてくれるなぁと思いつつ、とはいえ、自分で解決していくしかない。0時過ぎ、布団へ。
