東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『晴れたこの日に』

天気の良かった春分の日


猫のけだまのお骨を引き取ることになり、マンションを管理しているT夫妻を訪ねる。T夫妻が、管理人の職を辞して4月に引越すことになったので、さすがにこれ以上御世話になる訳にいかず。というよりも、元々は1年の約束だった。それだけでも有難い話で、1年経った後に「焦らなくていいですよ」と言葉をもらって、本当に甘えて今日に至ってしまった。


Tさんがけだまを見つけてくれたのが、2009年の9月4日の早朝。すでに事切れていたけだまを丁寧に埋葬してくれた。そのような対応をしていただけて、何よりT夫妻のようなお人柄の方々に最後、弔ってもらえたことが本当に何よりの救いだった。そして、それ以降、僕ら家族にとってT夫妻との交流は、まるで東京におじいさんおばあさんがいるような気持ちにさせてくれる。猫のみぞれのことも、娘子のことも本当に親身になって接してくれる。


T夫妻の引越しは残念だけど、それは事情があるので仕方が無い。ということでけだまの骨を探すため、墓をスコップで掘る。娘子は砂遊びだと思ったようで、スコップを貸せと要求し、やたらめったらと掘りまくる。遊びではないよと言っても、僕がスコップを持って掘っている姿は娘子からするとお遊びにしか見えないだろう。T夫妻は、けだまを布で包んで埋葬してくれたという。それを目印にととにかく掘る。で、本当に小さな骨を見つける。どうやら布も分解されてしまったようだ。2年と6ヶ月。当然、けだまも白骨化している。全ての骨とはいかなかったけど、頭蓋骨や手足などおよそだいたいの骨は見つけることができた。それを洗っていると、娘子はそれでまた遊ぼうとする。骨投げられてしまう、あぶねぇあぶねぇ。


もう、悲しみはない。けだまは今でも僕にとってかけがえのない猫だ。代わりなどいない。失った時の喪失感といったらなかった。突然のことだっただけに余計に苦しかった。それでも今は、素直にけだまの骨と向かいあえた。風化したわけではない。よろこびも悲しみも、けだまのいろんな記憶は、どれもが愛しいものになって自分の中にある。だから、悲しみはもう、ない。けだまはもう死んでしまったが、僕の中にはちゃんと、ある。


いずれにしても、一区切りついて、今はほっとしている。差し当たり、埋葬できる土地もないので、しばらくは我が家にて。今日が晴れて、ほんとに良かった。