東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『虚構を用いて現実に挑む』

春めいて暖かい一日。花粉症ではないけれど、目の奥のむずがゆさや、鼻のムズムズ感にいよいよきている気配を感じる、ってなことを毎年書いている気がする。

岡田利規「遡行 変形していくための演劇論」が本当に面白く、刺激を受ける。

以下、抜粋。

つくりごとのドラマが現実の中に置かれることは、現実という領土の一部が突然、外国の領土になるようなこと、いきなり飛び地が出現するようなことだ。だから、現実とドラマのあいだにはおのずと、ある関係、たとえば緊張感が生じる。
(中略)
私が、ドラマが現実と緊張関係を生じさせうるものだと知ったのは、端的に言えば、震災以降の社会の雰囲気の中で生きてきた経験によってである。この現実のあり方、社会のあり方が、唯一のものであるはずはなくて、そしてこれが唯一のものであるはずがないということは、少しでも目に見える状態となっていることが必要で、そのためには、現実の社会のあり方の、この何だか揺るぎなさそうに見える様子が少しでも、何かによっておびやかされたほうがいい。そしてそういうことをできるのが、たとえば虚構なのだ。

個人的に、創作を考えるうで常々「ファンタジー」でありたいと思うのですが、まぁ、なかなかそういう風にはなれておらず。ただ、根底にはずっとそれを持っているつもりでして、だから岡田さんの語るこの言葉はとても共感できました。

上の文章は、他に例を挙げれば、西島大介さんが漫画「凹村戦争」のあとがきで書かれていた

最悪で滅茶苦茶で容赦のない世界に対抗する唯一の方法。
最高に滅茶苦茶に容赦なくやること。


と、確実に共鳴している、と思う。


でもって、そんな言葉を見事に映像化しているなぁと個人的に思うのは
小栗康平さんの「埋もれ木」であり、ツァイ・ミンリャンの映画作品であったりするなと思い、ただ、それらに漠然と憧れるばかりでなく、では、自分はどういうふうに創作をしていくかを考えなければなるまいとは思うのですが。


逡巡の春先です。