東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『きまじめ楽隊とぼんやり戦争』

朝、天気が思わしくないが、仕事へ。朝、諸々少し片づけてから、ここしかないと新宿の映画館へ。

池田暁監督『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』を観る。

冒頭の楽隊の演奏と共に、草地を行進する足踏みの音がする。楽隊の音楽は長閑なのに、音量が徐々に上がっていくのが、どこか不気味な予感を与える。俳優たちの演技や台詞は不自然なイントネーションだけど、それが最後までとことん続く。町の名前ははっきりとしているが、日本の、どことも言えない地域の場所であることが、かえって、特定させないからこそ、誰にでもあり、どこにでもあると思える。SNSも無い世界だけれど、情報が多すぎることと、少なすぎることはおそらく同じ地平に存在するし、情報が多いからといって、人の動きはそこまで変わらない。実際に、今の時代は、まさに傍観の社会。情報だけが流布し、それをスマホで見ながらあらゆることが他人事のように過ぎていく。かといって、映画は、手触りがないかというとそういうわけではない。撃たれて手が喪われる人がいれば、暴力を受け続ける人もいる、性的な差別を受ける人もいる。目の前で起きていることはドラマチックに描くことを避けているだけで、目を覆いたくなるような人の業だ。その最たるものが戦争を「ぼんやり」描くことにある。だからこそ、映画の最後、新兵器の威力が、とてつもない描写と共に発揮されて、ようやく僕は言葉を失う。軍隊で働き、楽隊にいる時点で、すでに「加担」してしまっている主人公が、川の向こうの誰かと音楽を通じて、音楽だけで交流をしたとしても、新兵器を用いて攻撃することを止めないことはおそらく必然だし、この映画の結末もまた既定のものだった。積極的に現状を否定しないこと、何もしないことは、結局のところ、現状の肯定になってしまう。主人公が唯一、自らの選択で取った行動は、楽隊とは別の、1人として、川向うの誰かと音楽を演奏することだった。映画の最後、彼の演奏するトランペットに対して、反応がないことで、初めて主人公は喪失に気づく。

それにしても、映画の中で、これほど、食事(咀嚼)シーンがあるのに、食べることに喜びを感じることができない映画も見事だなぁと思う。映画を通じて、喜びを受け止めれることは幸いだけど、それと同様に、嫌なことも受け止めることができるのも映画の魅力だ。これから先、ここで描かれていることが「映画で良かった」と思えるだろうか。もうすでに、戦前のこの時代に。

ということで充実しつつ、劇場をでると、嵐のような風と、雨が降っている。桜が散ってしまわないか、そればかりが心配になる。