東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『山河ノスタルジア』

tokyomoon2016-05-07

昨夜、微睡みつつ映画をDVDで観てから寝たのだけど6時半過ぎに猫たちに起こされた。餌をあげてからぼんやりしつつ、晴れていたので布団を干し、掃除機をかける。休みみたいなことができたけど、これから仕事。


ジャ・ジャンクー監督『山河ノスタルジア』。仕事終わりに渋谷の映画館に行った。久しぶりに劇場で映画を観る。


1999年、2014年、2025年の3つの時代のパートでわかれている。2つの楽曲が分断されたパートをつなぐように用いられている。1999年に18歳だった若い男女の三角関係。友情はどこまでも続くようだったのに、三角関係のもつれであっという間に崩壊する。嫉妬心から爆弾をしかけようとする男の行動も、葛藤もなくあっさりと思えるほど簡単に1人の男を選ぶ女も、それらの行動はどこか短絡的に見える。選ばれた男はビジネスに将来を夢見て、選ばれなかった男は言葉少なにその故郷を去る。どこか浮かれたような1999年。歳もあるだろうか、若さが行動をさせる。そして早々に結婚した2人には子供が授かる。男はその子にアメリカドルの意味をするダラーという名を名付ける。この年のパートはスタンダードサイズで撮られていた。


その長いイントロのような1999年パートが終わったところでタイトルクレジットが表示され、シネマサイズに拡がった画面いっぱいに職場の記念写真のシーンから2014年が始まる。一気に世界が変わるように思える。


年代が変わっていくが、主人公である女と男は1人の役者が演じる。もう1人の主人公である息子は、各年代で俳優が変わる。


時間の経過はメイクなどにより表現されるし、スマートフォンのような携帯端末機の変化などで時代が変わるところを描くが、それは表層的なところに過ぎない。故郷の風景はそれほど変わらず、1999年に流行曲として描かれた楽曲がかつての懐メロになりつつある。その故郷の風景や流れる音楽の変わらなさが、時代の経過を浮き彫りにするよう。


そして2025年パートでは、中心が息子に変わる。母国語である言葉を忘れ、英語しか話せず、オーストラリアに暮らす自分の境遇に苛立つ。そんな最中、母親近くの年齢差の中国語教師に心惹かれる。中国語教師も旦那との離婚があり、その心の空白を埋めるように青年に寄り添い、2人は幸福な関係を築けるように思われたが、第三者による「親子ですね」という言葉によってその関係は崩壊する。


いや、青年は単にその第三者の発言を失礼なものと憤怒しただけだが、中国語教師は、自分が青年との歪んだ関係に溺れていたことに気付き、そのことを悔恨する。母親を探し求めていた青年に対して、母親にもなれず、女性にもなれない立場を彼女は悟ってしまった。「母親に会いに行きなさい」と告げる教師に、「何も考えてなくて」と青年は言葉にする。この時、彼は18歳。かつて自分の父や母が若さだけで行動をしていた時と同い年。きっと彼らなりの想いはあった。だけど、それらが正しいかは別だ。親は離婚し、父親も決して幸福ではない。青年の取った行動もまた、失われた母親を求めた行動かもしれないけれどどこか短絡的であった。でもそのようにしか人は生きられない。日々、自分の想いに懸命になるしかない。


2025年。故郷にとどまり続ける母親は、変わらぬ風景の中で、1999年の頃に流れた流行歌で踊った踊りを同じように踊る。変わらぬもののなかで、変わり続けるしかない人が踊るその姿は時の流れの残酷さも感じるけれど、そのようなことがこの瞬間の彼女にとって幸福なことであるなら、それはそれで良いのだと信じたい。