東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『職人』

■ 首が痛い。どうやら寝違えたようだ。左回りに首を回しても痛くないのだけれども、右側にちょっと首を向けるだけで痛みが走る。最近、寝るときに布団に入って横になりながら本を読むことが習慣になってしまい、そのままウトウトして気がついたら寝ていることが多々あり、昨日もいつの間にか寝ていたので、その時に首に負担をかける格好で寝てしまっていたのだろうか。とにかく首が痛い。

■ 昨日、夜勤明けに目白へ行った。展覧会をやったメンバーと会う。表現について考える会。どうやら1月に1回の割合で順調にこの会が行われるようになってきた。昨日集まったときに台本を読むことで「あ、そうか」と気づくことがあり、そういった発見はとても参考になる。それはともかく目白駅前の目白通り明治通りに向かって歩く道がなんだか好きだ。交通量が多いのがちと残念だけど、快晴の気持ちのいい日中に新緑の街路樹の中を歩くのは気分がいい。

■ 話は変わる。週刊文春の5月26日号の猪瀬直樹さんの連載コラム『ニュースの考古学』はJR西日本脱線事故について書かれていた。この事故は効率を追求するあまりに安全を無視したことが原因だとする考え方が体勢を占めていることに反論をしている。

『効率と安全は対立する概念ではない』

猪瀬さんはそう切り出す。そして次のように語る。

『江戸時代後期、日本人は精密な技術に磨きをかけ、高度な金融知識を駆使して人口減少とゼロ成長に立ち向かった。その下地があったから明治時代以降、急速な近代化に成功した。近代以降も、農業や工業によるものづくりは伝統的な職人芸に支えられている』

仕事を正確に遂行するために、有効であれば効率をあげるように工夫することは重要で、そうすることで安全にもつながっていた。かつて仕事は『職人』の手により効率よく、そして見事に行われていった。日本の鉄道のあのひっきりなしのダイヤ運行が可能なのも、かつてダイヤを編成する職人『スジ屋』がいたからだという。『スジ屋』によって秒単位で計算された運行ダイヤだからこそ円滑に電車が走れたのだという。そのようなスジ屋の仕事を紹介した後、猪瀬さんはさらにこう続ける。

『大量輸送と正確なダイヤは都市交通の宿命である。精密な機械の製作と同じく精密なダイヤをつくる。今度は熟練の運転士が一寸の狂いもなく運行させる。良くも悪くも、これが日本文化の伝統であり伝統芸でもあるのだ。
(中略)
効率と安全を高度に両立させる技術が日本職人にはあったはずだ。』

確かに職人の仕事という観点から見れば効率をあげるということは一つの技術だ。だからこそ安易に事故がおきたから運行ダイヤをもっと楽にしようということは職人の仕事の怠慢とも思える。まぁJR西日本の運行ダイヤが効率をよくするためのダイヤだったのか、ただの無茶だったのかは見極める必要があるだろうけれども。とにかくこの職人という意識は重要だと思う。

■ 職人ということに関して、猪瀬さんと似た意見をくるりというロックバンドの岸田繁さんが自身のWeb日記の2005年4月28日の日記で語っている。詳しくはその日記を読んでいただければ分かるのだけれども、一部だけ引用。

『あらゆる分野において、俺は職人を信用しています。それは音楽をやってる現場でも、マスタリングの現場などで痛感しますが、優れた職人はノウ・ハウや集中力、効率的なものの考え方とこころのゆとりを持ち合わせています。製品がひとつひとつ違う性質を持っていたとしても、それぞれを魅力に変えてしまう力、そして現場で根付いた自然主義な知識。彼らがいる限り、産み出される「もの」も幸せやと思います。』

■ 仕事に対する姿勢としての職人。しかし今の日本資本主義の中で仕事は職人のものであるだろうか。もちろんそういう分野も確かに存在しているが、拡大しているサービス産業の分野でこの『職人』が必要な部分はどんどん少なくなっているように思う。24時間開いているコンビ二を営業するのに必要なのは『職人』ではなく、低賃金で教えられたマニュアル通りのことをやってくれる『人材』でいいわけだから。

■ 社員にならず、フリーターのままでいる人が急増している現実は、逆の見方をすればそれぐらい職人ではないフリーターという働き手を必要とするサービス業が増えたことを指しているのだろうし。

■ まぁ確かに24時間開いているコンビ二やファミレスには大変お世話になっている。つまらなそうに働いているバイトの人のおかげでそういった店は営業が可能なわけだし、フリーターの僕としても、マニュアル通り仕事をこなすだけでそこそこの賃金がもらえる時給制のアルバイトという仕事は専門分野の技術も要らず大変有難い。そしてそういった職種のおかげで仕事を休みながら芝居ができることもまた現実。

■ マニュアル通り動くチェーン店で、低価格の牛丼を食べる恩恵は受けているものの、日本中どこで食べても同じ味で、丁寧だとは思うけど堅苦しい挨拶をぎこちなくするアルバイトの接客を受けるときのあの感じ。働く人も、食べにくる僕にしてもそこで行われているのは単調な作業だ。全ての事柄が「可もなく不可もなく」で済まされている。

■ 職人になりたい。せめてそういう気持ちで芝居を作りたいなとつくづく思う。猪瀬さんや岸田さんの意見は最もだと思う。サービス業は必要だけど、そんな気分で自分の一番好きなことをやっていたら、情けなくなるのは自分自身だ。意識の問題だ。仕事を職人として捉えられているのか。一番好きなことにそういった感じで臨んでいるのか。ちなみにこの2人と同じと思われる意見を劇作家宮沢章夫さんがこの日記の10月19日『いくつもの擁護のために』で語っている。フリーターというポジションで芝居を作る人々がその『職人』ではない仕事や経済体系の中に埋没した意識で芝居を作ってしまうことの危うさについて言及されている。まぁなんだかんだゴタクは抜きにして『いいもの』を作ればいいのかもしれないけれど。考える前に跳ぶことが僕には必要なんですがね。