東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

埼京生活『散歩日和/26歳の枯木灘』

■ 日中に散歩に出かけた。用水路沿いに植えられている桜が花を咲かせていた。すごくきれい。同じように散歩している人がたくさんいた。子供を連れて歩いている母親。孫と手をつないでいるおじいちゃん。犬を散歩させているおじさん。それぞれの速度で歩いていた。風はまだ少し冷たかった。天気は良かったので日向に入ると暖かい。日向にあるベンチに腰掛けて桜を見ていたら、そこを通りかかったおばちゃん2人組みが「あー、こっちだったら暖かかったね」「向こうは寒かったね」といいながら通り過ぎていった。


■ ふと路地に目をやると子供が一人縄跳びをしていた。そこに女の子が近寄ってきて一緒に縄跳びをはじめた。「ほら、こうやるの」とその女の子が縄跳びをしながら言う。「ちがうよ、それだとちゃんとできてないよ」と男の子。どうやら2重飛びを競い合っているよう。その2人のやり取りが聞こえるあたりでぼーっとしていたらさらに母と子の親子連れが向こうから歩いてきた。その子供が縄跳びをしている2人に気付き「なわとびしてくる」と母に言ってその2人に駆け寄っていった。母親は桜の木の下で置いてきぼりになってしまっていた。3人の子供がぴょんぴょん飛び跳ねていた。


■ さらに用水路沿いを歩いていると前方から杖をついた30代くらいの男とその男の手を引く5,60代のおばさんがやってきた。前方に障害物がないか確認するように杖を左右に振りながら進んでくる。おそらくその男の人は眼が良くないのだろう。おばさんのほうは母親なのだろうか。手を引きながら桜の下を歩いていた。男の人はどのくらい眼が見えているのだろうか。この満開に咲く桜の花は見えているのだろうか。するとおばさんが掴んでいた男の人の手を桜の樹に誘導した。男の人は桜の幹を手で触った。それがその男の人なりの花を見る行為なのかもしれない。


■ まだ少し肌寒かったけど、桜がとてもきれいでいつまで散歩していても飽きなかった。夕方になって風が出始めてから急激に寒くなって驚いた。家の中ではまだストーブを使う始末。日中は桜の花を見てたのにまだストーブを使うっていうのはなんだかおかしな気分だった。


中上健次枯木灘』(河出書房新社)読了。先日読んだ『岬』の続編。主人公秋幸は本の中で26歳だった。なんども自分の年齢を意識する描写が出てくる。24歳で自殺した兄より2歳分長く生きているという設定が秋幸に年齢を意識させていることは判るものの、それだけではないものも感じる。26歳ってどこかはっきりしない曖昧な年齢だと思う。少なくとも僕はそう感じた。完全に20代を折り返したもののまだ30代は遠いようにも感じる。成人としての緊張感があった20歳、大学を卒業した23歳、区切りとしての25歳、その時のほうが強く年齢を意識した。意識ってのはつまり大人としての自分の生き方に対する意識。それよりも年を重ねたはずの26歳の方がなんとなくそういう意識に弛緩があった気がする。変な危機感はどこかにあった気もするけどなんとなくいろいろなことが曖昧で不安定に揺れ動く。この小説はまさに26歳の小説だと思った。タイミングの問題だけど、自分もまたギリギリそのタイミングでこの小説を読めたことはなんとなく良かった。今後も枯木灘を何度も読み直すことはできるけど、26歳という年齢で枯木灘はもう読めない。