東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『声がみえる』

■ 劇作家松田正隆さんが主宰するマレビトの会の公式ブログに松田さんの演出ノートが掲載されている。そこに書かれている『声』の記述。

語りの地平。それは身体のことだ。つまり、現在のことだ。それに対して出来事は過去に相当する。過去を現在において語るのだ。その逆はありえない。


 宮沢章夫さんは「今、この国」で「過去形」の劇言語を発せられる「身体」は「ない」という前提に立つことでしか、言葉を考える契機はないと日記に書いておられた。その日記を受けて佐藤信さんは「語るべき過去の喪失(不在)」を考えなくてはならないと書いている。言葉との向き合い方が、宮沢章夫さんは「鵺/NUE」になり、佐藤信さんは「ハムレット/マシーン」になった。そして松田正隆さんの言葉との向かい合いが、新作の「アウトダフェ」になっているのだと思った。3者の言葉に対する向きあい方がそれぞれ異なる表現になっているのが興味深い。さらに演出ノートから引用。

  

しかし、語りの場が現前を必然とするのには希望があるようにも思える。それは、まさに伝達不可能なことを語ることにしかない。身体はそのような場所で受難者となる。語りえぬ出来事を語ろうとするとき、こうむる語り手の身体の「ふるえ」。過去が現在に振動をもたらすのである。やはりそとき、声が見える。


■ 先ほど、ある友人と電話で話をした。話題は人とのコミュニケーションの難しさについて。自分が思うことをそれこそ100%完全に伝えることは可能か。それはきっと難しい。友人と話していて気付いたのだけど、言葉を持ってしまった時点で、人が他者に言葉だけで自分が思うことを100%伝えることは不可能なのだと思えてきた。それでも何かを伝えたいと思うから、表現が生まれたのではないかと思う。言葉の不完全さを知りつつ、それでも言葉を用いて、さらに異なる手段を用いて、この身体で表現を生み出す。もしも技術が進歩して、もしくは神様と呼ばれる存在が突如現れて、僕の頭をパカッと割って「ほら、これが僕の思ってることなんですよ」と人に伝えることを可能にしてくれるとして、じゃあ頭をパカっと割るかといったら、多分しない。そうすることで伝わることは、100%であったとしてもそれはほんとの100%ではないと思う。いや、仮に100%だったとしてもそれはつまらない100%でしかない。ならば面白い50%の方がいいと思う。言葉という足枷をつける事でしか生きていくことが出来ない人間にだけ与えられた表現という悦びがあるのだと思う。


新宿武蔵野館ノア・バームバック監督の「イカとクジラ」を観る。青年がひとつの劇的と呼ぶべき出来事に直面し、その渦中で劇的と呼ぶには程遠いささやかな出来事を通じて一気に成長する姿がとてもいい。走り出すんだよなぁ、若者は。ラストの博物館での青年の表情とかほんと、こういうのはグッとくる。


■ それからツタヤで借りた千原浩史「−詩―05TOUR」を鑑賞。次々と出現する愉快なベルトのバックルにほくそ笑む。それにしても初めて近所のツタヤに行った。外観は狭い印象を受けたけど品揃えはすごくいい。これは通いつめるぜ。