東京から月まで

東京在住。猫と日常。日々のことなど。

『桜の季節。35年先はよくわからない』

今日は、夜に仕事でどうしても職場に行かねばならなかったのだけど、ここしばらく休みをとってなかったので半休というやつを使い、少しばかりゆっくりとした。娘子と公園に行き、遊ぶ。すっかり砂場で遊ぶのは手慣れたもの。もう、スコップも上手に使うし、自分が何をどうして遊びたいのかも判っている。桜が咲いている季節。つくづく、時の流れを感じる。もう一年も経っている。


時の流れに関して、なんとも感慨深くなるのは、昨夜、仕事帰りの途路で近所に住む友人のT君に会い、少しばかり話をしたから。T君と、家常さんがある決意をし、それが現実のものになったのだ。とても大きな決断。僕なんか想像もできない覚悟がいるだろう。それにも関わる話で、終わり際、T君と「35年後とか僕らはどうなっているんだろう」という話になった。想像もつかない。僕はまだ34年ほどしか生きておらず、つまりこれまでと同じ年を重ねるといのだろう。10年前も、5年前も今の立ち位置を想像していなかった。1年前でさえそうだろう。その頃も、僕は娘子と桜を見ていたけど、今見る、桜の風景はあの頃とも違う。35年後なんて想像もつかない。で、35年経つと自分は70歳かということよりも、娘が37歳になっているということがもうまったく想像つかなすぎて驚く。いずれにしても、先過ぎる。


話戻って、今日の昼は、嫁氏も合流して、近所の法明寺で桜を見ながら食べた。穏やかな時間、ゆっくりとご飯を食べつつ、桜を見る。娘子とシャボン玉をして遊ぶ。で、それに飽きると、落ちている桜の花びらを拾って遊ぶ。拾うとうれしそうに嫁氏にそれを持っていく。あと、カメラを向けると娘子はピースをしたり、謎のポーズをする。


「この世で俺/僕だけ」に関して、月川監督がブログを書いていました。描いたのは『人が信念を貫こうと必死で生きる姿』と。確かにタイトルからしてずいぶんと独りよがりなことを言ってます。物語はおおよそ荒唐無稽だと思います。『信念を貫く』は言い換えれば『腹をくくる』でもあると思います。


この作品の構想は、月川監督がFacebookで呼びかけた作品募集であげていた『お題』に端を発します。思いつきで書き出しただけに、結末に持っていくまで改稿に非常に苦しむ結果になりますが、それはまた別の話。当初は勢いがあればそれでいいだろうくらいで単なる喜劇を書くつもりでした。監督やプロデューサーの方と打ち合わせをしていくうちに単なる喜劇とは異なる意識を持つようになりました。きっかけがなんであれ、それをまっとうするために腹をくくる。そこへのこだわりは常に意識して、脚本を改訂していきました。


登場人物の名前は、ある規則性を持っています(オンエアに乗っける都合上、名前は一度変更されているのですが、その規則性だけは残してもらえました。)。物語の進行上、別に名前など呼ばれない人もいるし、大して意味のあることではないのですが、ひとまずある規則性のうえで名前がつけられてます。それは、大きくわけて2つの理由があります。一つは、単に僕が役名を考えるのが苦手で、すでにある名前を拝借したという安直なところがあるのですが、もう一つは、1人1人の登場人物が、腹をくくり、個の行動に対して責任を担う、個という世界における絶対的な決定権を持つ存在であるべきだという意識も、なぁぁぁぁぁんとなくありました。


僕は、この脚本を第八稿まで書きました。その後、月川監督の手に委ね、第九稿を書き上げてもらいました。12月16日の早朝のことです。その日起こった出来事の結果に僕はとてつもなく絶望的な気持ちになり、夜になりその第九稿を読み、大袈裟ではなく本当に救われた気持ちになりました。それは単なる偶然ではあるのですが、この日に、この作品の方向性が定まった第九稿が完成したことは、僕にとってはとても印象深いです。当然、そこから決定稿へと流れ、さらにキャストの方やスタッフの方々の手により、映像化されていく中で、もっと劇的な昇華を遂げていると思うのです。


別に大仰なことを言うつもりはなく、本当にただただ、それぞれが腹をくくって生きるということの、その愛すべき滑稽な姿を描ければという思いから始まっています。繰り返しですが、是非に多くの方に見ていただきたいのです。